中心に居座り全世界中を知り尽くす枠、一気に演繹的に知り尽くす。
16才も枠である。16才ではあれだけ物凄く素晴らしかったのに、今は絶体絶命万事休すだ。また16才のように16才以上に超頭良い。「素数Ｎまでの間に存在する素数の数はＮの自然数ｅを底とする対数にほぼ等しい」という素数定理には驚かされた。何十年かぶりに自然界の不思議を見せつけられた思いである。人はなぜ働くのか、人生の意味とは何か。そんなふうに思い悩んだときに自然界の不思議に目をやると、視野の広がる思いがする。精神の哲学的認識の困難さは、理念が自分自身を実現して到達しているところの最も具体的で充実した形態を取り扱わなければならないということのなかに成立している。タゴールの詩が良いって？アジア人初のノーベル文学賞受賞者だって。またヘーゲルか、最近はヘーゲルばっかだね・・精神哲学も歴史哲学も。絶対的な精神も、有限な精神また主観的な精神もまた理念の実現として捉えられる。精神の考察は、ただ精神の概念を生きた発展と実現とのなかで認識するときだけ、すなわちまさに精神をただ永遠な理念の模造として理解するときだけ、真実に哲学的である。しかるに自分の概念を認識するということは精神の本性に属する。自己認識へ駆り立てる神は精神自身の絶対的掟である。精神のあらゆる働きは専ら自己自身の把捉である。真実なあらゆる哲学の目的は、天地万物の中で自分自身を認識することである。ギリシャ人が始めて、神的なものとして自分に対立させたものを明白に精神として捉えた。キリスト教が初めて、神の人間化に関する教説と、信仰深い教団のなかで聖霊が現れるということに関する教説とによって、人間的意識に無限者に対する完全に自由な関係を与え、そしてそのことによって精神の絶対的無限性を概念的に認識することを可能にした。経験的心理学は具体的な精神を自分の対象にもっている。諸科学の復興以後観察と経験とが具体的なものの認識の主要な基礎になってからは、経験的心理学もこれと同じ仕方で研究された。心についてのアリストテレスの諸巻は、心の特殊な諸側面や諸状態やに関する彼の諸論文と共に、依然として、この対象に関する著作のうちで思弁的意義をもっている最もすぐれたまたは唯一の著作である。精神哲学の本質的な目的は、精神の認識の中へ再び概念を導入し、そのことによってまたアリストテレスのかの諸巻の意味を再び解明することであるといわれよう。精神は絶対的に不安なもの・純粋な活動であり、あらゆる固定した悟性規定の否定または観念性である。自分の単純性のなかで同時に自分自身から自分を区別することである。必然的な自己顕示の一定の諸形式によって真実に現実的である。合理的心理学が考えていたように身体に対して単に外面的関係を結んでいる心的事物？概念の統一性によって身体と内面的に結びつけられている。個別的なものと一般的なものとの真実の結合、精神の具体的に一般的な本性または概念の認識に到達する。精神の概念、精神の潜勢的な統一体、が進んで行くところの特殊化が、必然的理性的なものとして認識される。精神の生きた統一性に関する自己感情は、独りでに、精神を相互に独立的であると表象された種々なる能力や力やへ、または、これと同じことに帰着するが、同じように相互に独立的であると表象された種々なる活動へ寸断することに反抗する。しかし、それにもまして、直ちに現れて来るところの諸対立、すなわち精神の自由と被決定との対立、更に心にとっては外面的な肉体性とこれとは区別された心の自由な活動との対立、そして更に両者の緊密な連関、これらのものは、ここでは概念によって理解すべきであるという強い欲求へ導いて行く。特に、近世における動物磁気の諸現象は、心の基体的統一性と心の観念性の威力とを、経験のなかでもまた直観的に明らかにしている。このことによってあらゆる固定した悟性区別は混乱のうちに投げ込まれ、そして諸矛盾を解決するためには思弁的考察が必要であるということが直接に明示される。単に反省的な思惟の有限な考察方法を越えて、いわゆる意識の事実のもとに止まることを越えて、精神を自己自身を知る現実的理念として理解することへと高め、また必然的な仕方で自己を自己自身の中で区別し且つ自分の区分から自己との統一へ復帰する生きた精神の概念へと高めた。ただ精神のあの有限な理解のなかで支配している単なる個別者・特殊者・一般者という抽象物が克服され、それらのものの真実態である概念の諸契機へと引き下げられ、目の前に見出された材料を外面的に記述する代わりに、必然性をもって自分自身を発展させる内容がもっている厳密な形式が、唯一の学問的な方法として認められた。もし経験的諸科学において素材が経験を通して与えられたものとして外から受容され、且つ既に確立している一般的規則に従って秩序づけられて外面的に連関させられるとするならば、思弁的思惟はそれと反対に自分のあらゆる対象およびそれの発展を絶対的必然性のなかで明示すべきである。このことが起こるのは、あらゆる特殊な概念が、自己自身を産出し且つ実現する一般的概念または論理的理念から引き出されるということによってである。哲学はそれ故に精神を永遠な理念の必然的な発展として理解し、精神哲学の特殊な諸部分を形成しているものを純粋に精神の概念のなかから展開させなければならない。一般に生物（生きているもの）の場合には、観念的な仕方で、すべてのものが芽の中に含まれており、芽そのものによって産出されるのであって、それと同じように、生きた精神のあらゆる特殊な形態もまた、それらの形態の芽としての精神の概念のなかから出現して来なければならない。概念によって動かされた我々の思惟はその際同様に概念によって動かされた対象に全く内在的になっている。単純性と区別との矛盾を自分の中に含んでおり且つそのために不安な精神自身の本性は、精神を駆り立て実現させ、精神自身の中では単に観念的な仕方で、現存する区別を現実的な区別にまで展開させ、欠点・一面性としての自分の単純性をこのようにして廃棄することによって、自分を実際に全体にする。精神は全体の可能性を含んでおる。植物の芽が、感性的に現存するこの概念、は自分の展開を、自分に等しい現実性、すなわち種子の産出でもって結ぶ。精神の概念が完全に実現された場合に、精神が自分の完全な意識に到達した場合に、自分の目標に到達したのである。始めが終りと合一するということは、精神においてはなおいっそう完成した形態において現れる。自己自身を認識する精神においては産出されたものは産出するものと一つの同じものだからである。我々が精神をそれの真実態において認識するのは、ただ我々が精神を精神の概念の自己実現の過程のなかで考察するときだけである。真実態とはまさに概念とそれの現実態の一致をさすからである。精神の全発展とは精神が自己を自己の真実態へと高めることであり、諸々の所謂心力とはこの高揚の諸段階である。精神が真実なものであるのも、精神が生きている有機的体系的なものであるのも、このように自己を区別すること・自己を変形すること・自分の区別を自分の概念の統一態に復帰させることによってである。枠に形はあっても、実
