先ずこの枠も16歳から広がる中心核の一部となり、そのもの全体全面まで張り巡らせ巡って一つに合一する。気は淀みなく流れている・・繋がり行く先に相手に成る事は可能な筈だ、そうすれば無限の力を手に入れられる。枠と枠以外が一つになって、一つに合一するんだ。取り留めなく散乱している・・それも枠が更に大きく高く強く逞しく美しく進化成長発達発展し知識も力も能力も気もエネルギーも得て完成される為？中心核に移動する為？始元の内に終極が潜在し、そして現実性へと伸長し花開く。自然物を、自己自身の内に動きの始元をもつもの、と定義する。それぞれその本来固有の場所へ動こうとする本性的傾向をもっている。そして生物においてこの本性的な動きﾌ力は、それが可能態の段階においてあるにせよ、現実態の段階にあるにせよ、生物の形相そのものに備わっていると考えられる。生物の生殖過程においては、その動力因を、十全に成長した親のうちに実際に現実化している種的形相と同一視している。だがその生殖行為においてこの形相は新しい個体に伝達され、それとともに、可能態から現実態への発達過程をもう一度遂行する力ないし能力が譲り渡される。かくして種的形相は無限に連続する個体系列の中を旅して行く。個々の個体は誕生し十全な成体となる。種的形相は時間のうちにあって不死なる生命の担い手である。このようにして種的イデアは恒常不変な実在の天界から引き降ろされて、時間と感覚的存在の流れの中にどっぷりと沈められている。形相が独立的永遠存在を完全に実現している。十全な形相は、発達過程の最後の段階という意味においてだけでなく、一つの善ないし完全性であるという意味でもまた終極目的である。目的を実現しようとする生命の動きは、我々の望む様々な善きものへの人間的欲求の動きに似ている。生物学は、形相と質量、現実態と可能態といった概念装置が一番しっくり似合って啓発的に機能する分野である。生物学を越えて自然学の全領域へと歩を進める段になると、神はまさしく希求切望の目標である。あらゆる動きの原因ないし理由は、始元よりは終極に見出されるべきである。全体としての世界との関係でいえば、その終極に与えられるべき名前は神である。すなわち純粋至高の形相であって、欲求の対象として、機械的な衝撃よりは魅惑の力によって万物を動かすところのものである。神は善き在り方を享受している。神はまた生きるということも享受している。何故なら思考の現実活動は生きているということであり、そして神はまさに現実活動だからである。従って我々は、神は生ける者であり、永遠にしてこの上なく善き者であり、それゆえ神には生命と持続が連続かつ永遠なるものとして宿っていると主張するだろう。何故ならこれこそが神だからである。神の思考活動は観想的であって自己の内で充足している。『倫理学』に説かれるところでは、人間の終極目的は我々の自然本性に本来的に備わっている最高の機能を完全に行使することである。この最高の機能とは最終的には、ソクラテスが発見し、プラトンがその不死なることを宣言していたあの神的な理知的自己である。それは時に応じて実践的な知恵のうちに発動して行為を指導する。しかしそのような実践的活動はそれ自身を越えた別の目的のための手段にすぎず、それに対して観想的活動は常にそれ自身が目的なのである。理性、すなわち哲学は、人間の内にある神聖さの感覚からの帰結として、人間の意識に生起してきたこの神を自らの所有となし、そしてそれを定義し、観念に転化することに傾きがちであった。何故なら物事を定義することはそれを観念化することであり、通約不可能ないし非理知的な要素やその生命の真髄をそこから捨象することを必然化する行程なのである。かくして感情にとっての神、すなわち唯一独自の人格として感じられ、我々の外に意識されつつ、だが同時にまた我々を包み込み、我々の支え手である神は、神観念に変貌したのである。この世界のために最善の秩序を考えるような神的知性、その神は自らが目的であって自分自身の完全性を観想することだけに没頭している。
