天真爛漫天衣無縫なる枠
天人の衣服には縫い目のあとがないこと。転じて、詩や文章などに、技巧のあとが見えず自然であって、しかも完全無欠で美しいこと。彼は二十の頃には重々しい魅力ある顔をしていた。それは厳めしくも女のような、女神ミネルヴァを思わせる美貌であった。今では暗い眼と蒼白い頬とが悲しくも激烈な魂を表わしていた。しかし彼の眼差しは母の上に向けられた時青春時代の優しさを暫し取り戻した。 信仰の対象として尊崇・畏怖(いふ)されるもの。人知を超越した絶対的能力をもち、人間に禍福や賞罰を与える存在。キリスト教やイスラム教では、宇宙・万物の創造主であり、唯一にして絶対的存在。神話や伝説に人格化されて登場する語りつがれる存在。あらゆる場合にあらゆる方法で己を神に委ねている者、この者は真に身体の中まで神によって賛美されている。霊魂は水晶であり神性はその輝きである。貴方が生きている肉体は、この二つの容れものである。脚が痛い、気が狂いそうだ、伸びようとしている成長痛だよ。道で出会った男の子に一目惚れ,なーんて・・一目見て気に入った、大物だ。本質的なもの,永遠のものを求める人間の憧れ、内面の世界ではあらゆる感覚が一つの感覚になる。神と人間の合一に達し、この結合の中で神の天が成り立つ。瞑想の至り着くところ帰依と感謝が捧げられる。「神の子の誕生」「人間と神との同一本質性」「神の領域に人間が入って行く可能性」「時空を超えて永遠性に入る問題」「神との神秘的な合一性」・・ヘーゲルも『芸術学講義』の中でシレジウスの『瞑想詩集』について「直感と情感の優れた冷静さと深さでもって、事物の中の神の実体的な現存、神と自己の合一、また人間的な主体性と神の主体性を驚くべき神秘的な表象力で表現している」と述べている。思索の鋭さと深さに相応しい真に優れた神秘思想家、今だ人生の大航海時代だな・・枠を待ち受ける運命とは・・聖者は天に昇り神の中の一人の神となる。罪人は地獄に堕ち汚物や泥になる。天国は賛美に満ち、栄光と歓喜に満ちている。地獄は嘲弄に満ち、恥辱と悲惨に満ちている。＋−両方を経験した枠だからこそ・・神の顔は人を酔わせる。神の顔は輝きに満ちている。一度でも神の顔の光を見るならば貴方はこの顔によって陶然と酔わされてしまうだろう。神自身が私に与えてくれる最高の幸福は、神がまるで自身を創るように私を創り高めてくれることである。本質的なものだけが生き続ける。本質的なものを直接見出だす道は彼にとって瞑想である。ここでいう瞑想は最大限に広い意味で、黙想,静思,観想などすべてを含む。状況的に見てやはり来るのは確実・・そう成れれば女を抱けるのも確実・・人よ、貴方の意志を地上の小さなことに執着させるな。天国では望むままに貴方の願いが満たされるのだから。神はすべてのものの中ですべてのものになる。神はキリストの中では神になり、天使の中では天使となり、人間の中では人間に、貴方が望むすべてのものの中ではすべてのものになる。神はすべてのものの中ですべてのことをする。セラフィムの中にあって愛し、玉座の中にあって支配し、ケルビムの中にあって瞑想する。枠の哀史。すべてのものは源に戻る。己が己の意識が世界全体まで広がっていくのだ。16歳丹田から中心核枠からそのもの俺までの無限の広がりを感じられる。意識が肉体を完全に離れ出来上がろうとしている出来上がった形に移動する。先ず意識が肉体を離れ、次いでそれに連れ釣られ肉体も引っ張られるという感じだ。神は永遠に自らの美しさにうっとりしている。神は美しすぎるほど美しいので、永遠の昔から自分の顔の輝きに自らも見とれている。中心点に己を置け、そうすれば過去も現在も未来も地上と天国に起こるすべてを同時に貴方は見る。中心に身を置くこと、それは自由自在の境地でもある。ここに至れば時間,空間の先駆的なものは消え、すべては現存的になり、本質だけが透徹する。同時に童心に還り、絶えず大自然を見つめ、一体になることを願う気持ちが生まれる。神にとっては千年も昨日のようなものだ。神のもとでは人が数える歳月などまったくない・・俺もだけど。永遠者である神が時間の外にこの世界を創造したのだから、この世が永遠に存在しているのは明白である。この世界は無限に続く永遠の世界よりも貴重である。永遠にあってはすべてが同時に起こる。永遠のあの世ではあらゆることが同時に起こる。
