字を書き込み入れ印刷しておけば、己にも枠にも世界にもヨリ強く深く強烈に印象付けられる刻み込める。突然、静かな部屋に坐していた彼は、霊光に包まれ、周囲の壁が一挙に消え失せる。透明化した周囲に新しい世界が展開する。そして彼の霊耳には妙音が響いてくる。自分にとって最も根本質的な事柄さえ、思想哲学宗教書等には共感できる部分が沢山あるだろうと、それでもこの状況から救い出すには程遠いか、己の力＋天の助けがあれば神の御手が入れば救われる。高次の世界へ参入する代わりに、自分自身の主観的な幻想世界の中へ陥る。真理の代わりに、勝手な意見が自己を主張するようになる。神秘修行は、興奮したり空想力豊かであったりすることよりも、「冷静」であることによって、その客観性が保たれる。自分を全体生命の一部分と感じる。私が自分自身を完成させようとする努力は世界のためでもある。世界は私の純粋な感情や思考から、私の善行からと同じ利益を受け取る。すべて決意は一つの力である。行為すること自体に喜びと満足を見出す。修行者は自分の行動が、自分の全存在が世界のために捧げられていることを学ぶ。自分に向かってくるすべての事柄に対する感謝の気持を養う。自分の存在は全宇宙からの贈り物である。人生をこれらの条件に相応しく形成する。内なるものは外においても自己を全うする。創造活動と敬虔な態度、この二つを尊重することが神秘修行者に求められる基本感情である。神秘道においては、学ぶという行為がすべてである。認識の階梯を高く上れば上る程、静かで敬虔な傾聴が必要になってくる。霊界における認識行為、それに伴う一切の生活と行動、それは高い領域に到れば到る程、物質界で必要とされる通常の認識行為に較べて、一層微妙となり繊細となる。人間の活動範囲が拡がれば拡がる程、その人の行為の基準は微妙になる。十六弁の蓮華全体が一様に輝き始め活性化される。その十六弁のすべてを活性化することによって特定の能力が生じる。自己に沈潜し自己と語り合い自分にふさわしい生活信条を確立し自己を吟味し経験的な知識に思考の力を浸透させ、諸々の義務について思い巡らし、人生の意義と目的について反省する。このような修行を通して蓮華はますます完全に生長していく。考えたり語ったりする事柄が、外界の諸事象と一致すればする程、この能力は一層速やかに開発される。肉体を超越することは簡単だろうと、それでもこの肉体がどれだけ重要なものか、肉体を忘れる。もし彼が何か不快な事柄に出会ったなら、そこに含まれた必然的な部分を受け入れ、力の及ぶ限り事柄を良い方向に変えようと努める。どんな瞬間にも自分の見解を新しい経験に即して吟味し矯正するよう心掛ける。自分のところに向かってくるすべてに対して常に心を開き、自分の行為に対してもその有効性を信じる。天に昇るほどの歓喜と死ぬほどの絶望の間を動揺してしまう。贈り物、自分の過去を乗り越えた運命からの貢ぎ物、恐怖とはまさしく過去からやって来る。この世の頂点に連れて行ってくれ。そうなるべきだったところに、元に戻るだけなんだ。歴史上の偉人とは、自分の目指す特殊な目的が、世界精神の意思に合致するような実体的内容をもつ人のことです。偉人が英雄とよばれるのは、その目的や使命を、現存体制によって正当化されるような安定した秩序のある事態の動きから汲み取り、内容が隠されている源泉からも汲み取ってくる場合に限られます。その源泉とは、いまだ地下に潜む内面的な精神ともいえるので、この精神は種子の殻をたたくように外界をたたき壊してしまう。つまり英雄とは自分の中から何かを創造するように見える人物のことであり、その行為が、彼のもの、彼の作品であるとしか思えない事態や状況を生み出す人です。
