形式的人格ならば同一であるから、全人類とか神とかいうものでも同一種の人格を当嵌めることができる。連続する意識状態の多数とこれを結合する統一とに分れ、持続とはこの二つの者の綜合ということになる。駄目になった自分を昔以上に引っ張り上げる。真昼のような享楽の頂上から絶滅の恐ろしい夜への滑降、思想と感覚との継起が速かであればあるほど、それらの交替が多ければ多いほど、またそれらの結合が調和的で緊密であればあるほど、生存の価値ある芸術品は立派に仕上げられる。そしてまた、なおその上に生存の全連関を機械的に説明し、更にそういう運転の奥に秘められている発条をも指摘しうる者が人間性と自己理解との頂上に立っているのだ、と彼等は思っている。永遠にして無限なものと君との関係についての直接的な意識を君に喚び起こす。時間の領域の外にあり時間の法則から解放せられた不死の生存への美わしい招きを、私の内にある神的なものを喚び覚ますための意味深い促しとして喜ぶ。時間からの超脱、沈思と省察とにおいて精神の内面的本質を認識する。自分が成し遂げた自績を眺め、世界と運命とを相手に試みた苦闘を好んで想起する。私は私の眼を私自身に向けて、各瞬間を永遠の要素として固持し、また自由な内的生命として直観する。私は事物の永遠な形相を私の内に永遠に持っている。各自の身体が個人のものであると同じく、すべてのものは人類の大きな共同の身体として人類の所有に属している。人類の自由な行為が身体に向けられるのは、身体の脈搏を感じ、身体を形成し、すべてのものを器官に変じ、そのあらゆる部分に精神という王者を君臨させ、身体に生命を注ぎ込む。地上は私の自由な行為の舞台である。私が個体として私に本当に対立させるもの、即ち遍在と全能とをそのうちに包んでいる私に最も近い世界は、精神の永遠の共同体であり、その相互的影響、その交互的啓発であり、自由の高き調和である。この世界の務めは、私の本質の表面を変化し琢磨して、私に影響を及ぼすことにある。ここのみが必然の領域である。私の行為は自由である。自由は私にとってすべてのもののうちで最も根源的なものであり、最初の最奥のものである。私が自由を直感するために私自身へ立ち帰るとき、私の眼もまた時間の領域を離れ、必然の拘束から解放される。全部の他者も全体としての己に包摂されている。内的な働きにおいては、すべてのものが一つである。一々の行為は他の行為の補足であり、それぞれの行為のうちには他の行為もまた含まれている。それゆえにこそまた自己直感は、一定した序列と限界のうちにあるものとして見渡される個別的なものの遥か上に私を超越せしめる。一々の行為は常に私の本質の全き統一へ帰らしめる。それぞれの活動は他の活動を伴っている。己の全本質を再び了解する。時間の世界においても永遠の領域においても不死であり、地上的にも神的にもその生を営むべきである。地上的な行為は容易に時間の中に流れ去り、幾多の表象や感情が去来する。精神の自己観照がすべての形成や創造の神的な源泉であるとすれば、自己のみを表現するに当たって自己自身を反省する。自己省察のうちに君の永遠の生活を始める。   
