本当にこの枠に花が咲くのか!?明日か明後日に必ず死ぬから、それで勘弁して・・全時空間に軌跡道程に全体まで広げ広がり一つに合一する。名称は複数でも事柄は一つであり本質と実体も一つなのである。三位一体について我々は、それやの一つが神性であり偉大さであり本質と呼ぶのであるが、父と言葉と聖霊という三つの位格のことである。修道士とは一人という意味の語に由来し、一人で居ることが義務づけられている。修道士は、よりよく神のために時間を割き、神に祈ることができるように、一人でいなければならないのであり、より自由で静謐の内に天的な事柄の観想と天使との交わりに集中するために、また聖務日課に専心するために、孤独の中で過ごさなければならない。「一人座っているがよい、黙しているがよい、そうすれば自らを軽くできるであろう。」主なる神は喧騒から離れて安らっている精神と魂にこそ好んで来てくれる。我々が天国に入るには多くの苦難と困難を経ねばならない。このように出発し、聖なる修道服を纏った後には、いよいよ力を増して、進むように努力すると共に、全てに勝利するという新しい人を探究することに全力をあげて、限りない精進をもって歩んで行くように努めます。到達するまでは昼夜たがわず自分の能力に応じて汗を流します。何も所有していないようで全てを所有している。汝は既に述べたあらゆることを神の御心に適うという目的の為になし、あの栄光と言い表しえないほどの幸福とに到達し、それを実際に獲得できることになる神の恵みを授かる。現在の受難は将来の栄光に比すれば全くとる足らないほどの小さなものである。「本当にそうなるのなら」俺もそう思いますよ、本当にそうなるのか？何時そうなるのか？今日？自己を存在するように創造できるか、創造された万物に先立って万物の永遠なる創造主が存在し、万物は彼から現に存在するということを得ている。創造主にこの宇宙すなわち美しい作品を作り上げるように仕向けることのできるのは、創造主自身の讚美と栄光に他ならない。創造主自らが示したいと望んだ。創造主自身が創造の始源であり目的なのである。万物の創造主も自らの栄光を示し自分が知られることを望む。自ら知られることを望んだこの方は認識する能力を持った知性的本性を創造した。創造主は、あらゆる感覚で捉えうるもの即ち天と地およびそれらの中に存在するものを愛の絆で理性的本性に結び付け人間に仕えるようにしている。人間には神の生命ある似像が存在する。自己を自分の創造主の生命ある似像であると認識する時、知性は自己を似像として観つつ、創造主そのものをも眺めることになる。その時それは似像から原像へと引き上げられる。生命ある似像が自己を神の生命に近付けて行けば行くほど、それはより一層生命と喜びに満ちる。あの栄光と至高なる至福、ただただ何もかも全部を委ね任せ委任するだけ、自分の過去と現在と日々の不可避の罪を悲嘆すること、現在において悲しみ悔い改める者は未来において喜び最高の幸福のうちに歓喜することになる。修道士は自己の創造主に対して抱く大なる愛徳と愛の故に悲嘆する。何故ならば彼は人祖の堕罪の故に創造主から離されているのだから。私は嘗て自分が神のものであったことを覚えております。あの頃私は喜びに包まれていました。神の御心に適うことは、此処に住まうこと、全ては何事かを表し示し意味している。聖霊に満たされることで偉大な賢慮を授かっており偉大なる英知を神から与えられ照らされた。あれほどの深い神秘を認識したのだから。我々は自身の賛美に他ならない神を賛美し、更にいっそう神と同じ姿になることに近付く。神は善き方であり、慈しみ深く、万物のいかなる物をも憎むことなく、万物を与え保持し、義にして心が寛く、その他、あらゆる讚美すべき諸々の徳を備えた方である。我々が不死なる徳を愛するのであれば、神を愛するのである。神は愛であり徳なのだから。更に我々の愛が大きくなればなるほど、我々は神の愛に限りなく似るのであり、ますますよく結合され明瞭に絶対的で永遠なる愛に転換される。万物は愛によって存続し、愛だけが神そのものを認識し、神の甘美さを試食する。これが永遠なる生命である。神である愛から万物が存在へと移されていう事実の故に、万物は愛によって保持され神へと帰還する。自己の存在を神に全く依存している。本性的に自己の創造主を即ち自己の基体かつ実体を愛する。汝をこれほどの決意へと促した神の慈しみは汝に更なる進歩をもたらし、古い衣服を脱ぎ捨てた汝に私が新たな服を着せかけた。汝は古い地上的なアダムを彼の様々な行為もろとも捨て去って新しい天的なアダムを汝の身に纏ったのであるが、悪意の中にしつらえられたこの世界に汝が歩み入ったという事実を受け取った源としての古いアダムに代えて、永遠で祝福されたもう一つの世界を受け取る源としての新しいアダムを身に付けた。従順を駆逐し無垢を投げ捨て、自分の思い巡らしに身を委ねた。この人が人間の本性をもっていて、それゆえに人間の子であり、同様に、神の本性をもっていて、それゆえに神の子であるということは必然的である。あの至高なる方は、原罪にせよ現実の罪にせよ、いかなる罪からも全く免れている。神と人の仲介者、道であり真理であり生命である方、我々は確信している。神の為の死の中に永遠なる生命が存在し、この世界の様々な所有を失うことの中に天の王国が存在し、損失の中に利得が存在する。神の内での存在様態は全能を遂行する意志なのだから。が触れても激しく感じる敏感さ、駄目だ、もう心がズタズタバラバラボロボロだ、いよいよ死ぬ時が来た、死ななきゃ・・更に一層繊細でデリケートに傷付き易く不安定になってしまった。本人が良かった時期も良い感じ＋を向けられた事も沢山あったにもかかわらず,異常な繊細さデリケート傷付き易さ不安定さの為に時機を全部の機会チャンスを逸した。
