枠ごと中心核に預けろ！！
この道は苦悩を終らせる道である。洞察へ至福へ解脱へと到りつく。道を歩み、自分自身の洞察に基づいて至福の啓示の真実なことを自分で確信する。ここに一つの道があり、一つの行き方がある。この道を歩むものは、修行者仏陀こそ時機にふさわしく、真実の法を説くのだということを、自分で認めるにちがいない。精神統一は、あらゆる洞察のため　ならびに更にその洞察を越えた彼岸にある解脱目標のために必要な予備段階である。汝の孤独を出て、汝が学んだものを実行において示すがよい。なぜなら、今や汝にとっても人々にとっても、汝が読んだり思索したりしたりした事柄がどんなに役に立つかを知るべき時が来たのであるから。自己完成には常に悔悟が先行する。なるべく早く無限の自己完成を目指して進むべきである。自己棄却する。脱ぎ捨てる。自分の霊の中に神を意識し感ずるならば、彼は世界のすべての人々と自分との合一をも意識し感ずるであろう。すべての霊が同一家族、同一起源、同質同根であり、同一の光によって生命を与えられ、ことごとく同一の中心、同一の幸福を目指している。この我々にとって一番大きな、すべての宗教の根底に横たわる真理は、理性によって証明され、我々の本来の性質である。汝の内に我の内に、あらゆる人々の内に生命の神が宿っている。一つの偉大な思想が私の心を捉えた。それは私の霊の偉大さの意識であり、神を受容する能力の結果、自己完成の能力の結果、偉大さへ運命付けられている結果、神との合一の意識である。ただ神のみが知る、世界の万民が一つの神殿一つの町に集まる時、その時が到来したとき、初めて真にキリストの御代が、その神聖な御業の終局的完成が実現するであろう。私の特殊性の原因は無限の中に時間と空間を超えたところにあり、この私の特殊な我は、時間と空間を超えた世界から生じたもの、つまり私が現に意識する我そのものだということを知る。知識は偉人を謙虚にする。真の我は、個我、孤立した自分の一身の中にも、生きとし生けるすべてのものの中に存在する。私欲の念が我々の関心全体を我々の個我に集中させ、絶えずその個我を脅かす無数の危険が不断に頭に浮かんできて、そのため不安と同様の念が我々の生活の基調となってしまうように、生きとし生けるものはすべて我々の個我と同様、我々自身にほかならない、という認識は、自ずから我々の関心を生きとし生けるすべての存在に向けさせ、それが我々の心を広く豊かにするのである。娑婆での我々の不安動揺を鎮め、なだめてくれる。善良な心根と清らかな良心が静かな、揺るぎなき喜びを与えるのもそのためだし、善行を行うたびに新鮮な歓喜の情が増大して、そのこと自体が我々自身に、その感情の根拠が奈辺にあるかを説き明かしてくれるのも、そのためである。エゴイストは、敵対的な他者の間にある孤独な自分を感じ、そのひたすらなる願いは自分一個の幸福にある。善良な人は、友愛に満ちた存在者たちの世界に住み、そのすべての存在者の幸福が彼自身の幸福なのである。神性は常に我らの胸に宿り、絶えずその本源へ向かおうとしている。汝心を尽し魂を尽し意を尽して主なる汝の神を愛すべし。全世界は一つの法則に従い、あらゆる理性的存在者の中には一つの理性がある。それゆえ理性的な人間にとって完全性の概念は唯一つである。人々の行為の大部分は無意識的な模倣によって暗示によって行われる。神秘的照らしを受け、すべてが新しく感じられ、別の知性を得たように、感じた。見方のまとまりというのは、この世界とその中に含まれるすべてのもの、我々の魂も身体も経験も出来事も、すべてのものをば、時間空間を通ずる不可逆的運動の形で観じようとする立脚点に存する。世界全体歴史全体が一つのまとまった姿を示す。芸術家や文学者の仕事というものが実は、事業家や軍人や政治家の業績よりも遥かに長い生命を持つ。詩人や哲学者の影響は歴史家のそれよりも更に広範囲に及ぶ。予言者や聖人の影響力は更に前者のいずれの影響をも凌ぎ、また遥かに永続性を持つ。過去に存在した、また将来いつかは存在するであろうすべての要素は、肉体的なものも、知的なものも、精神的なものも、現に今我々の中に存在している。それらの要素を支配することが、賢人の仕事である。あらゆる宗教に共通で万人に理解できるもの、すなわち道徳的な愛と合一の教えである。一生涯その日その日を懸命に生きよ。永遠に生きるがごとく働き、今すぐ死ぬかのごとく人々に接せよ。宗教は、本質的に見て、我々の一切の義務を神の誡めと認めることである。愛は、これを経験する者に精神的・内的喜悦を与えるばかりでなく、喜ばしい人間的生活のための大事な条件でもある。真の愛は、万人を愛し愛しようとする精神状態である。我々がその中において初めて、我々の霊の神的本源を意識する精神の状態である。人生の苦渋を柔和に、忘恩を恩恵に、屈辱を宥恕に変化させること、そこに崇高な精神から生ずる聖なる錬金術がある。愛するということは、自分の愛する相手の生を生きることである。汝の隣人を愛せよ。聖人は万人に代わって思い、万人は彼に目を向け耳を傾ける。愛は我々に恵みに満ちた秘密を啓示してくれる。自分自身と和合し、また万人と和合するための秘密を啓示する。顔は醜いどころか寧ろ美しいくらいだったが、なんとなく凄味のある異常なものであった。およそ私の知っているすべてのことは、神があるからこそ、そして私が神を知るからこそ知っているのである。ただそのことの上にのみ、およそ人々に対する、そして自分自身に対する、更にはまた、超地上的・超時間的生命への関係が確立されるのである。神とは、私が自分をその一部として意識する無限者であり全体者である。神は私にとって、精進の目標であり、それに向かって精進することこそ私の人生そのものであって、それゆえ私にとって存在する。もしも私が神を理解したら、私は神に達したことになろう。神を知っており、神へ向かう方向を知っていて、この知識こそ、私の知識のなかで最も信頼するに足る知識とさえ言える。真の信仰者は、あらゆる存在者の中に至高の理性を認め、己の心を神の霊に向けることによってこれに供え、己自らの光によって万物を照らす者、すなわち神の性質に近付いて行く。無限の自然を神の叡智の中にあると観ずる。出来うるかぎり頻繁に神を想起し、神について思い、神について語ろう。たとえ運命が汝をどこへ放り出そうとも、汝が己の生の法則に忠実であるかぎり、汝の本質、汝の霊、汝の生命、汝の自由、汝の力の中心は、いたるところ汝についてまわるであろう。我々は往々にして、我々が己の内に意識する、無限に偉大で強力な何者かと、狭小で無力な何者かとの間の恐ろしい矛盾対立をまざまざと感じて、悲しんだり喜んだりするものである。あらゆる人智を超えた一つの最高理性がある。それは遠くにあり、また近くにある。それは悉く世界の上にあり、同時にありとあらゆるものに内在している。あらゆる存在が最高理性によって包括される。神は自分のところまで昇って来ようと願う人々を引っ張り上げる。
