枠への拘り執着から離れろ！！枠への拘り執着を捨て棄てろ！！中心核に拘れ執着しろ！！全部の意識も中心核に集めろ集まれ集中集合集結しろ！！この胸にある何もかも全部を中心核に！！胸の中にある何もかも全部中心核！！16歳丹田から中心核枠から全体全面に張り巡らせ巡る。精神的にも肉体的にもその日暮の刹那的な生き方をする。頭も心も体も頭脳精神肉体も全身の全部の力を使い切って尽して果たしてクタクタだ、それでも最後の一滴まで力を絞り搾り取り出す。ただただ合一の実現の為に。俺の枠の全身に16才のように16歳以上に無限の無限大の絶対圧倒的な巨大強大甚大強烈激烈猛烈なる力が気がエネルギーが湧き上がり漲り溢れて来る。生まれ産まれてから全部の軌跡道程も16歳も今にハッキリと覚え記憶して枠に刻み付け込まれている。16歳も軌跡道程も今枠にある。わー、凄い綺麗な眼してるのね・・うわー、森瞬てさー、大きいんだ背高いんだー。道徳的な情感的人間にとっては、自然の素朴さは美しい、最高に保存に価するものと思われる。知識は生命を、道徳は無邪気さを、聖なるものは神的なるものを、精神は自然を、それぞれ美しいと感じる。この独自な絶対的な価値判断のうちには、イロニーの神が、エロスが生きている。大きく高く強く逞しく美しく引き締め締まった格闘家の身体です。人間が立派であればある程それだけまた彼は自分の罪のために悩むのである。自己が多ければ多い程、それだけまた罪の度も強烈である。また気が流れが風向きが変われば気分も良くなれるか・・十六歳のとき働いたあの夜の悪事、すべてのもののうち最も美しく、万物の創造者よ、善良な神よ、最高の善であり真に私の善であられる神よ。貪欲は多くのものを所有しようと欲するが、しかし貴方はすべてのものを所有しておられる。私の神よ、私の魂の生々しい記憶は貴方の御前にある。神と共に生きる真実の休息を請い願う。清い光を浴びて美しく輝き、飽くことのない豊満である正義と純真よ、私は貴方を見ようと欲する。貴方の内にこそ安息と生命が存する。貴方の内にいるものは主の喜びの内にはいる。最善のうちにあって自らも最善である。私の神よ、私は若かったとき、貴方から離れて迷い、貴方のかたい守りから遠くへさまよい、私にとって乏しい国となった。私は愛することを愛して愛の対象を求めていた。内において内心の糧に、すなわち私の神よ、貴方自身に餓えていた。どういうわけで、友情の泉は、わきたつ瀝青の奔流に、いやらしい情欲の恐ろしい激流に流れ込んで、自分自身の意向によって天上の清らかさを突き放され投げ出されてそれに変えられ化せられるのであるか。貴方は、魂を愛する主であられる貴方は、私たちよりも遥かに清く純粋に魂を愛される。だれがこれをなすことにたえるものがあろうか。貴方の頼もしい憐れみが私の頭上遥かに高く駆け巡っていた。私の情念を一変し、私の祈りを貴方自身に向け、私の願いと望みとを全く新しいものとしまった。私の神よ、私はどんなに熱望したことであろう。地上から貴方のもとにとびかえろうと熱望したことであろう。知恵は貴方のもとにある。知恵そのものを、どんなものにせよ、愛し求め手に入れ保持し強く抱くように目を覚まされ、火をつけられて燃え上がったのである。私は、私の神よ、貴方を訪ね求めたとき、真理を得ようと悶えながら、何という階段をへて、地獄の底に引きずり込まれたことだろう。貴方は私の最も深いところよりもなお奥に、私の最も高いところよりもなお高いところに居られた。その部分が全体よりも小であり、たとえ無限であっても、そのある部分は、無限に拡がっているものよりも、ある一定の空間に限られたある部分の方が小さく、したがって霊のように神のように、いたるところにおいて全体として存在する。同一の身体、同一の日、同一の家にあっては、何がどの肢体に、どんな時期に、どんな個所や人物に適合するかを容易に知ることができる。心を尽し魂を尽し思いを尽して神を愛し、隣人を自分のように愛する。万物の支配者である神には、その命ずることに、躊躇することなく仕えなければならない。神は、何物をおいても先に服従されねばならない。侮辱によるにせよ、暴行傷害によるにせよ、他人に害を加えようとする邪悪な行為においても同様である。貴方は私が自らすすんで入った束縛から私を解き放たれる。私たちは、すべてのものの善であられる貴方よりも、我々自身のものを愛して、もっと多くのものを得ようと望みながら、かえってすべてのものを失った。罪とその審判、すべては神によって定められる。最高の真実の神の分子は、選ばれた聖徒の歯と胃によって解放される。貴方は高いところから御手を差しのばし、この暗い闇から私の魂を引き出された。ずっと後に与えられる歓びが当時の苦しみを慰めるために、あのように早く予示された。私はあの深い泥沼と妄想の中を転げ回って、しばしば立ち上がろうとつとめたが、ますます深く沈められた。私がなお闇の中に引き入れられ巻き込まれるままにほっておかれた。私を憐れみ私の魂を癒してください。私は貴方に向かって罪を犯したのであるから。自己の罪に絶望しうるためには、人間的に語るなら、深い心と自己自身への倫理的省察とが必要である。ただ個体的な人間のみが、ただ個体的な罪人のみが、キリストにおいてある神の前に生きている。しかも神はよく全体に心をくばる。神は一般に秩序の友である、そしてこの目的のために彼自身はあらゆる場所あらゆる瞬間に現在している。彼は遍在者である。神の概念は一切を包括する。彼は現実そのものすなわち一切の個体を把握している。罪は人間を個体に散乱せしめ、それぞれの個体を罪人として固く押えておくものである。この散乱は別の意味では現存在の完全性と調和もしているし、また目的論的に完全性の方向を目指してもいる。個体が神との親近性を感ずべきものとするならば、それはかかる親近性の全重圧を恐怖と戦慄のうちに感ずるように、個体は神のかの巨大な重圧、個体を謙虚ならしめて底深く沈め昂める。各人を個体に、個体的な罪人になすことによってキリスト教が始まる。天と地とがつまづきの可能性について掻き集めるような一切のものを一点に集中する、それがキリスト教である。汝は信ずべきである、神は天上において語る、「永遠界で再び語りあうことにしよう。それまでの時間にお前が何をなそうとそれはお前の勝手である、だが審判が迫っている。」
