自分という意識は枠よりも中心核から全体に移る。
自分の為すべき行為、もつべき体験のどんなに僅かな部分といえども、広大無辺なる宇宙の諸事象と関連し合っていることを、彼は今、洞察するようになった。静観の瞬間にこの関連が認識できたとき、彼は新たな、より充実した力をもって、日々の仕事に励むのである。彼の仕事、彼の苦労、それは壮大な霊的宇宙関連の下に為されるのだ。瞑想を通して霊界との結びつきを得た人は、生まれてから死ぬまでの間だけではなく、永遠に存在し続けるものを自己の内部に体得し始める。自己を認識し直観する。もっぱら生き生きと、健全な感覚と鋭敏な観察力を用いて、感覚世界に観入し、そして自分の感情に自己をゆだねればよい。自己の内部に沈潜する静観的態度と結びついた芸術感覚は霊的能力を発達させるための最上の前提である。芸術感覚は事物の表面を貫いて内奥の秘密にまで及ぶ。今の自分が枠よりも16歳で中心核で全体であること！！自分であるという意識は枠から完全に離れる。枠も16歳も中心核も全き一つの全体として統合一致し完成される。自我が何処までも拡大し全世界中を埋め尽くしてしまう。完全であればある程、その人は全体のためにより完全な奉仕をすることができる。薔薇が自分を美しく飾る時、庭園もまた美化される。関心の対象に自分自身を投げ入れ、そこで自分の自己感情を満足させる。自分に内在する意思の血潮のすべてをある対象に注ぎ込み、この目的に向かってすべての欲望と力を集中させるとき、個人の全重量の込められた情熱で、世の大事業は成就される。利己的な意図にもとづく人間の活動力、この目的の内にその人の意思と性格の全精力が注ぎ込まれる。この特殊な内容は、その人の意思と一体化し、その人の全存在をなす。自己を発見し自己にかえっていき自己を現実として直観するという目的、世界精神がその目的を完成し意識へと高め実現していくための道具であり手段が、自然存在ないし自然意思の形で登場した主観的な自覚的なものとなった、欲望、衝動、情熱、特殊な関心、思い込み、主観的なイメージ、途方もなく多量の意思や関心や活動です。理性が世界を支配し、世界の歴史を支配している。この普遍的かつ実体的理性を前にしては、他の一切はそれに従属し奉仕し、それの手段となる。理性は歴史的な事柄のうちに内在し、その事柄のなかで、その事柄を通じて、自己を実現する。普遍的で絶対的な存在と個別的で主観的な存在との統一、それだけが真理の名に値する。普遍的な目的は特殊な目的の中に入り込み、特殊な目的を通して自己を実現する。特殊と一般の統一は、自由と必然の統一という形でもとらえられ、絶対的に存在する精神の内面的なあゆみが必然的なものと見なされ、人間の自覚的意思のうちに関心としてあらわれるものが自由だと見なされる。哲学の内では理念が無限の対立へと進む。自分のもとで安定している自由で一般的な理念と、この理念が純粋に抽象的な反省を行って、形式的に自立した自由な精神的存在となった自我との対立です。一般理念は、一方では実体的に充実したものとして、他方では自由な恣意という抽象体として存在する。理念が自分にかえってくるとき、理念とは対立しつつ、絶対の有限性にとらわれた個々の自己意識が生じる。理念の対立物たるこの自己意識は、普遍的な絶対者とは対立する有限な限定された存在です。それは精神の現実性をあらわすものであり、精神の形式的実在の土台であり、神の栄光の土台です。絶対的なものと有限なものとが対立しつつ絶対的に繋がる様を捉えるのは、形而上学の深遠な課題ですが、この有限なものの登場とともに、あらゆる特殊的なものがあらわれてきます。敬虔な個人は救済や至福をも求める。絶対的で普遍的な存在とは区別されて、個として独立に存在する自我は、特殊な存在であり、特殊な状況を認識し、特殊な目的を追求します。それは現象世界に位置を占めるもので、個人が特殊な境遇にあって、特殊な目的を満たし実現するとき、この特殊な目的も現象世界に属するものです。この現象世界はまた、幸と不幸の存在する場でもあります。幸福な人とは、自分の境遇が自分固有の性格や意思や恣意にうまく合致し、その境遇に満足している人のことです。理念が自己にかえってきたときにうまれる個としての自由は、抽象的形式としてとらえれば、絶対理念の活動を示すものです。この活動は、精神の洞穴の内にある一般的な理念と、外部に対象としてあらわれた物質とを媒介する中間項です。内面の普遍的なものを外部に移し入れる中間項です。深い謙遜が彼の心に根付いた。謙遜に心から許しを願う。謙遜は困難な状況を突破する中でより深く成長していく。好き勝手に夢想に耽ったり、あらゆる種類の行法に手当たり次第に手を出したりする。取り入れられるだけ取り入れていく、増やし増えていく。
