軌跡道程さえ枠になれば16歳にだって何歳にだって全歳になれる。
16才の復活、16才と一つに、16歳が今枠に。また16歳から圧倒的な底力が湧き上がって来て全身に溢れ漲る。枠を16才を引っ張り出し上げる。枠の全身丸ごと意識ごと何もかも全部移し移って移動しておく。16歳に中心核に移し移って移動しておく。自分であるという意識もこの枠から完全に離し離れて放し放れてくれー！！枠も根本質的に完全に瓦解分解しされ、16歳に中心核に集め集まる集中集合集結する。意識ごと根こそぎ何もかも全部持ってかれ移動する。枠の何もかも全部16歳に中心核に移し移り移動する集め集まり集中集合集結する。16歳に中心核に結集する。枠よりも16歳こそ中心核こそ全体全面こそ自分なのだ。16歳に中心核に枠ごと移動！！16歳に中心核に何もかも全部一点集中！！枠も16歳に中心核に居る有る存在する。速く早く今この瞬間にも移し移り一つに合一するんだ、もう一刻もゴミ溜めには耐え堪え切れないから・・俺の枠の無限の無限大∞の絶対的圧倒的な巨大強大絶大甚大強烈猛烈激烈壮烈なる力で能力でパワーでエネルギーで何でも出来る。推し押し進め広げ広がり切り一つに合一し完成する。この俺の枠の全力全身全霊全精力を注ぎ込み創り造り作り出し上げた中心核、此処に枠が移動する、枠を中心核に落とし込む。全世界中に字を書き込み入れ印刷し続けて来たから、世界も知り尽くせ動かせる。理性が世界を支配している。物質の実体は重力であり、精神の実体は自由である。歴史上の偉人とは、彼ら自身の特殊な目的が、世界精神の意志であるところの実体的なものを含んでいる人々である。世界精神の権利はあらゆる特殊な権利を越えている。自然のうちでは運動はたんに循環的である。歴史のうちでは新しいものが生じる。歴史の素晴らしい映像が描き出されている。様々な個人的情熱、行動、等々の総和、普遍的関心の大きな塊を見出すかと思うと、また無数の小さい力が見出される。（巨大なものをつくりだす、無数の小さな力の集中）。人間によって説明される自然、すなわち自然の内面、本質は、神的なもの一般の始まりである。頭、すなわち思想の上に立ち、そして現実を思想に従って建設するところまで到達した。これは輝かしい日の出であった。弁証法とは、一般的には、概念における思考の純粋な運動である。人間の諸概念は永遠に運動し相互に移行し転化しあい生き生きとした生命を反映する。人間の思考は不断に現象から本質へ、限りなく深まっていく。本来の意味においては、弁証法とは、対象の本質そのものにおける矛盾の研究である。伸びる前に縮み、縮んだ後は体を大きく伸ばして前へ進む。これですっきりした。何もかも全部吹っ切れた。今まで自分がいかにつまらないことに拘泥していたか。枠にも全世界中にも16歳にも中心核にも全体全面に染み込み渡り浸透し広げ広がり一つに合一して、そのものとなる。すべてが発展するとすれば、それはすべてが相互に移行することを意味する。一般的な発展の原理は、世界、自然、運動、物質、等々の統一の一般的原理と結合され結びつけられ統一される。理解するとは、概念の形式で言い表すことである。運動は時間および空間の本質である。二つの根本概念、すなわち無限の連続性と点性がこの本質を言い表す。運動は時間および空間の連続性と非連続性との統一である。運動は矛盾であり、矛盾したものの統一である。すべては生成である。生成は原理である。最初の真理は生成であり、理性は、他者のうちに一者を認識し一者のうちに他者が含まれていることを認識する。かくして、万有、絶対者は生成として規定される。全体と部分、合致するものと相争うもの、調和的なものと混沌とを結合し、すべて（対立するもの）から一が生じ一からすべてが生じる。自然はそれ自身過程である。自然は変化し続け、万物は或るものから他のものへ、分裂から統一へ、統一から分裂への推移である。自然を理解するとは、それを過程として表現することである。理性的なもの、真実なものは、感覚的なもの、個別的なもの、特定のもの、たんに存在的なものとしての、対象的なものからの復帰である。理性が自己のうちで知るところのものは、同じく必然性、すなわち存在における普遍的なものである。それは思考の本質であると同じく、世界の本質である。自然のうちにある普遍的なものから魂への、客観から主観への、唯物論から観念論への飛躍、両極端は触れ合い転化し合う。自然は、ちょうど頭脳がその他の諸器官との統一のうちでのみ存在しているように、統一のうちでのみ存在している。現存在とは、バラバラなものと考えられ、連関から切り離された事実（存在）であり、概念とは、連関、相互関係、連結、法則、必然性である。概念とは、事物が即自かつ対自的にあるところのものである。自己のうちで完結する円ではあるが、しかしその完結は同時に他の円への移行である。それが帰っていく中心点が、それを呑み込んでいるところのより高次の円の周辺におかれているような渦巻である。今やここに意識と存在との関係のより明確な展開、すなわち、真理の認識としての認識作用の本性の展開が始まる。精神は本質を思想として言い表すところまで進んだ。ただ復活を合一を完成を神の手をサプライズを待つ。世界はそれ自身現象である。あらゆる言葉（言語）は既に普遍化である。感覚は実在を示し、思考と言葉は普遍的なものを示す。行為とは、特殊な諸目的を実現しようとする主体自身の活動である。理念は絶対の力であるから、これらすべての目的は、理念を実現する手段にすぎない。普遍的概念、法則、等々の無限の総和が、具体的なものを完全に与える。客体への認識の運動は、常に弁証法的に通行する。つまり、いっそう正確に命中するために後退し、いっそうよく跳ぶために後へさがる。合ったり離れたりする二つの線、触れ合う二つの円。その交錯点は、人間と人類の歴史の実践である。実践は、現実の無限に多くの側面の一つが認識と一致する基準である。これらの交錯点は、矛盾したものの統一をあらわし、そこでは、存在と非存在とは、運動の（技術、歴史、等々の）与えられた諸モメントに一瞬合致する。すべては一つである、と我々は、あらゆるものについて語る。これは一は多であるが、同時に我々はまたそのうちに多を、すなわち多くの部分と性質を指摘する。
