過去が今に過去の自分が今の自分に過去の枠が今の枠に来る。
16歳も中心核もそのもの全体全面も、この俺の枠の手の感覚の届く場所にある、ただ自分とするなるだけだ。この人は神に似ている。その名が世界に知られ精神世界の支配者となった。神々の眼差しを湛える魅惑的な瞳をもった青年時代、黄金の菩提樹の下で楓の玉座に坐っている。神と自然が一つであり、自然によって与えられる貴族性が神のようなものであることを感じる。人間の尺度を越えてしまった彼の個性は一個の怪物的な現象であり、ほとんど醜悪とさえいえる。彼には地球さえもそれをのせることのできぬあの伝説の巨人スヴィアトゴールのようなところがある。彼のなかには『見給え。なんという素晴らしい人間がこの地上に生きていることだろう』と大声で叫びたくなるような気持を、絶えず私に呼び起すようなものがある。というのは、彼は、いうなれば、大体においても、また他の何にもまして、まず人間、人間的な人間であるからだ。これこそ真の人間だ。あるがままの自分を完成させることが、おぼろなままに、幼い時からの私の願いであり意図でした。自分自身に対する愛は、つねに小説的生涯のはじまりである。自分自身に対する愛は、自己満足や自惚れ以上の、もっと強く深く創造的なものです。その最も美しい形は、自分自身に対する畏敬の念、畏敬の念の最高のもの、神々の寵児が自分自身への感謝と畏敬の念にみたされた状態です。比類のない力強さで、心をこめて、次の詩が歌いあげている。無限の神々は、すべてを、そのいとし子に、おしみなくあたえたまう。つきることなきよろこびのすべてを、果てることなきかなしみのすべてを。自分自身に対する愛とは、神々の寵児が自らその担い手と感じている高い恩寵の神秘や、実体的な卓越性の神秘、危険な特権の神秘に対する素朴で誇らしい関心であり、また、いかにして天才が生成されるか、いかなる奇跡によって恩寵が幸福と業績とに分ちがたく結び合わされていくか、それらをきわめて神秘的な経験に照らして実証しようとする欲望なのです。『詩と真実』をうみだしたものはこの欲望であり、またこれこそが、まさしく、すべての偉大な自伝に霊気をふきこんでいるのです。私はすべての人に知られ愛されたいという欲望を感じた。自分の名を世に告げたいという欲望を感じた。そしてあらゆる人がこの告知によって大きな印象をうけ、私のまわりに集い、なにかしら私に感謝してくれるように、と。この心のみ老いを知らず、春の花の若きにふくらむ。あるは雪、あるは霧雨に包まれつつ、なれゆえに、エトナいま焔ふきあぐ。朝焼けのごと、なれはかの、頂の、いかめしき岩肌を染む。いまひとたび、ハーテムさ覚ゆ、春の息吹と夏のほむらを。最も豊かに与え、かつ、受け取る者・・また切り放され離されたな・・居た堪れ落ち着かない不安な心理が来る・・薬飲んだ後にも来たな。若い彼の名声の夢、人に知られ愛されたいという彼の願いは、世界という大いなる汝に対する彼の愛の証明、自己愛と世界愛、愛の裡では利己主義と利他主義の対立は完全に解消されている。才能とは、何が出来るかよりは何者であるか、運命適応能力、精神と感受性とがあれば、各人の人生をいかなるものにでも作り上げることができる。こうして私は、幾千もの思想をもちあわしているのに、またも子供に帰ってしまった。目先のことも分らず、また自分自身のことさえもおぼろげだ。自然の曖昧な所産のなかから、彼自身の即ち理性の明快な所産を作りだし、かくして存在の使命と義務を果たそうとする。神々に比せられるまでに自然から愛をうけた人間、字は散々書き込み入れ印刷して来たから、自分としては字に委ね任せ委任するだけだ。時空間に充満遍満し、更に時空間を飛び出し超越して全体と成る。昔（１６才）と違って頭のキャパシティ（許容量）も能力も全然足りん、世界全体が己の領域だと脳だと心だと身体だと自覚している筈だが？駄目だ、今に至っても如何しても頭蓋骨と鎖骨に圧迫されてしまう・・頭蓋鎖骨問題からさえ解放されれば・・これも中身を絞り搾り取出し領域を広げ広がる為だ。マルサントレードとイートレード証券の口座に無限の∞の莫大な大金を振り込んでおけ！！彼は自分がいかにして救われるであろうかというようなことは全然神に委せきりである。ただ彼は神にとっては一切が可能であることを信じている。可能性を信ずるということ、それが信仰というものである。そのときに神もまた彼を助ける。信仰者は絶望に対する永遠に確かな解毒剤、すなわち可能性を所有している、神にとってはあらゆる瞬間において一切が可能なのであるから。可能性の欠乏は、一切が必然的であるということかないしは一切が日常的になったということかのいずれかを意味する。宿命論者の神は必然性である。神とは一切が可能であるという意味であり、或いはまた一切が可能であるということが神を意味している。自己が精神となるまでに自己の本質が根柢から動揺せしめられて、一切が可能であるということを理解するに至った人間のみが、神との交わりに入ったのである。
