頭脳も精神も肉体も幼児退行化現象・・全体を一つに統合一致する。
俺を枠を動かしているものと相手と先と一つになる。枠も枠のうちで、世界も世界のうちで、全部の時期が連続している。それぞれその中で内で内部で全部の時期の自己が連続している。原因と結果は、様々な出来事の全世界的な相互依存性、（普遍的な）連関、相互連結の諸モメントにすぎず、物質の発展の中の鎖の輪にすぎない。同じものが、ある時には原因として、またある時には結果として、或るところでは独自の存在として、また別のところでは定立された存在あるいは他のものにおける規定として、現れる。因果関係によってはただ一面的、断片的、不完全にしか表現されない、世界の連関の全面性と普遍性。結果は原因の顕現である。原因性は自分自身を前提する、自分自身の条件となっている。必然性というものは、あるからあるのであり、自己を根拠とする存在の自分自身との統一である。因果性とは、根源的な存在即ち原因から映現すなわちたんに定立されたものへの、そして逆に定立されたものから根源性への移行が顕在的になったものである。必然性が自由となるのは、必然のうちではまだ内的であった同一性が顕現させられることによる。人間は自己の行動によって世界を変えようと決心する。原因の内に結果が含まれ、結果の内に原因が含まれる？16歳の内に今が含まれ、今の内に16歳が含まれる？運命の必然の一本道？俺は16才も中心核も含んでいる、だから俺の中の枠にするのは簡単だ。真理は始めより終りにあり、より正しく言えば、継続のうちにあるのである。枠ごと自分であるという意識も16歳に一点集中して16歳になる。論理学においては、理念が「自然の創造者となる」。概念は「実在に完全に照応する概念」に発展して理念となる。概念は本質から生じ、本質は有から生じた。或る見地から見れば、また或る条件のもとでは、普遍的なものは個別的なものであり、個別的なものは普遍的なものである。すべての概念および判断の連関、相互的な移行、対立したものの同一性、これが主要な点である。帰納は類推・推定（科学的予見）と結合される。あらゆる知識は相対的であるが、認識の前進の各々の一歩のうちには絶対的な内容がある。目的は手段によって客観性と結合し、またこの客観性のうちで自分自身と結合する。人間は、その目的においては寧ろ自然に従属してはいるが、道具において外的自然の支配力をもっている。萌芽の状態で存在している天才的な諸思想、種子を応用し発展させたものの一つとしての、史的唯物論。目的実現の過程は、はっきりと概念として存在している概念を客観性に翻訳することである。目的の運動は今や、具体的な総体性として直接的な客観性と同一であるということに到達した。理念とは、客観に完全に照応した概念、すなわち客観的な真理あるいは真理そのものである。理念は、人々が現実をそれに近づけるように努力すべき最大限である。すべて現実的なものは、理念を自己の内に含み理念を表現するかぎりにおいてのみ存在する。対象すなわち客観的および主観的世界は一般に理念と一致しなければならない、それ自身概念と実在との一致である。理念は自己をまず個体とその無機的自然とに分裂させ、そして再びこの自然を主観のもとへ連れ戻し、そして最初の単純な普遍性へと帰ってくる過程である。理念の自分自身との同一性は過程と同じものである。概念は理念のうちで自由に到達したが、この自由のために理念はまた自己のうちに最も激しい対立をも持っている。理念の平安とは、たえず対立を生み出しまたたえずそれを克服し、対立のうちで自分自身と合致する、堅実さと確実さにあるのである。認識は、知性が自然の内へ深く入っていく過程である。個別的な存在（対象、現象、等々）は理念（真理）の一つの側面である。全体とそれらの関係のうちにのみ真理は実現される。現象・現実のすべての側面の総計とそれらの相互諸関係、ここから真理は構成される。すべての概念の変転、相互依存性のうちに、それらの対立の同一性のうちに、或る概念の他の概念への移行のうちに、概念の不断の変転、不断の運動のうちに、事物、自然のちょうどそのような関係を天才的に推測した。それぞれの概念はその他すべての概念と一定の関係、一定の連関のうちにある。（理念）真理は全面的である。理念はこれを理性として、更に主観＝客観として、観念的なものと実在的なものとの、有限なものと無限なものとの、心と肉体との統一として理解されうるし、またその現実性を自分自身のうちにもつ可能性として、その本性が現存するものとしてのみ把握されうるものとして理解されうる。理念のうちには悟性的関係のすべてが、しかもその無限の自己復帰および自己同一をなして含まれているからである。永遠の創造、永遠の生動、永遠の精神である。真理は過程である。人間は、主観的理念から実践と技術を通って真理に到達する。精神は自然より限りなく豊かであり、なお対立したものが概念のうちで絶対に統一されているということがその本質をなしている。認識の歩みは認識を客観的真理へ導く。認識はそれ自身の歩みによってその有限性を矛盾を解決する。論理的な諸概念は、それらが抽象的であり抽象的な形態にとどまっているかぎりでは主観的であるが、しかしそれらは同時に物自体をも表現する。自然は具体的でもあれば抽象的でもあり現象でもあれば本質でもありモメントでもあれば関係でもある。人間のもっている概念は、抽象的で孤立している場合には主観的であるが、全体、過程、総計、傾向、源泉においては客観的である。分析的認識は、存在するものをそのままに捉える。綜合的認識は、存在するものを概念的に把握しようとする。多様な諸規定をその統一において捉えようとする。綜合的認識の目標は必然性一般である。必然性の領域は有と相関の頂点であって、それは即自かつ対自的に概念の自由へ移行し、内的同一性は、概念としての概念である顕現した同一性へ移行する。今や概念は対自的に即自かつ向自的に規定された概念であるから、理念は実践的理念、すなわち行動である。人間の意識は客観的世界を反映し創造する。概念は主観的なものとして、また自体的に存在する他在という前提をもっている。自己を実現しようとする衝動であり、自分自身を通じて客観的世界のうちで自己に客観性を与え、かくして自己を達成しようとする目的である。理論的理念のうちでは、主観的概念は、普遍的なもの、それ自身無規定なものとして客観的世界に対峙しており、この世界から自己の内容をとってきて自己をみたす。実践的理念のうちではそれは現実的なものとして現実的なものに対峙している。自分が即自かつ対自的に規定されたものであるという主観の確信は、自己が現実的であって、世界が非現実的であるという確信である。善が絶対的なものであるという価値をもってあらわれるのは、それが概念の自分自身のうちにおける全体性であり同時に自由な統一性および主観性の形式のうちにある客観的なものだからである。目的の活動は、自己に外的現実の形をとった実在性を与える方に向けられる。
