漸く中心核に枠があり！！中心核が枠にあり！！だ。
主要部分が枠の外に抜け出し出てしまってからは、気も力もエネルギーも根こそぎ抜かれ奪われ持ってかれ抜け殻残骸の状態・・抜け殻残骸である枠ごと中心核に回収してくれー！！中心核に居る有る存在する枠、枠も中心核に居る有る存在する。枠も中心核の中に居られれば安定出来る筈だ・・16歳から広がる軌跡道程も枠に成る筈だ。枠が安らえるのは中心核の中でだけ、今日からまた昇り続ける。中心核と枠とは16歳と丹田とは常に交流し続けている・・枠が主導権を取る握る今日中に全体と枠ごと一つにするなる。中心核の中の枠の全身から炎が噴き出し上がっている様だ。諸手両手を上げて大賛成だ。意識の中に現れるすべてのものは神我によって反照反省される。自己智の所有によって神我は自由に自性を考察するようになる。修練を経た神我の身体からの離脱が最後に現れ、絶対的な解脱が成就する。心を自分の中に集中すること、心を自由独存の思惟に高めること、知的実体性は他の極に立つ。自我が自分のもつそれぞれの根拠に従って意のままに意欲し知り信じ考える。自分自身を展開するものである高次の客観性こそ特殊内容の存在を認め自由に放任しておくと共に結局それを自分自身の中に受容する。あらゆる災禍からの完全な永遠の解脱である。信心によって自分を自分の中に集中し〔禅定〕、自分を自分の思想の中に帰入させるのであるが、この純粋な集中の中心は梵〔ブラフマン〕、即ちこの一者、これを悟性〔意〕は最高の本性と呼ぶ。こうして我〔アートマン〕は梵となる。それは最高のものであって神々でさえもこの状態の下位にある。神我はあらゆる変化を免れた。推理は一般に原因と結果との推理関係であって、その場合には一つの規定から第二の規定への推移があるのみである。数論の推理は、原因から結果に推理される場合、結果から原因に推理される場合、原因と結果との異なる相関関係に従って推理される場合の三形式があるとされる。自性・・それは、すべてのものの根源として普遍的なものであり、物質的原因、永遠の物質、生産そのもの、絶対的実体である。覚・・自性の最初の産物であるが、それ自身はまた他の諸原理を生産するものである。しかも喜〔善〕、憂、闇の三徳の活らきによって三神として区別される。三神とは一体三神、即ちブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァである。あらゆる知覚や瞑想の中に自我〔我慢〕が現在しているという考え、感官〔知根〕並びに覚の対象〔境〕は自我に関係があるという考え、つまり自我が存在するという考え。自我は覚の力によって出て来るものであるが、自我こそ以下の諸原理を生産するものとせられる。原理は寄せ集め、諸原理はバラバラで、神我の中で統一される。問題は結局、神我の自性との結合の達成にある。この結合は存在するもの一般と存続とに対する真の根拠である。神我の願望と目的は享受と解放とにある。その中に、すべての他の原理が含まれているが、それはただ原始的未発展の形態においてである。神我こそ真の解脱を自分で自分の思惟的活動によって招来する。自分を自分自身と媒介し自分自身に帰って行く？その身を巨大な身体に拡大する能力、日光が当ると太陽にまで昇りうるというほどにその身を軽妙にする能力、指先で月に触りうるというほどの無限の力を諸器官が所有するということ、あらゆる生物と無生物との支配、自然の行程を変更する力、我々の欲することは何事でも成し遂げる能力、すべての夢が彼等にとっては真理と見られ現実とせられる。あらゆる過去と未来の智識に通ずる。全世界を一瞬に見渡す。諸々の結果の実存は神我即ち意識に依存するのであって、すべてのものは大原理、覚から出て来る。結果は原因の作用する前に因果性によって既に存在する。原因と結果との本質は同一、帰結は世界の永遠性、神は世界を自分の中から創造する。神が実存の中に持ち来すものは彼自身の規定なのだ。神我が自性を脱却した後、この自性との同一性の中で創造的なものとしてあるかぎり、それは神我なのである。自性は変様を通して活らく。人間でありながら恒久に存在する神となった。新プラトン派におけるギリシア哲学の終結は思想と至福の完全な王国であり、即自的に存在する観念的なものの世界である。精神は自分を知る主観性である。精神が自分にとって対象であるものを（しかも、それも実は精神自身であるのだが）全体性として知ると共に、精神がそれ自身全体性である場合である。中心と実際の物体との間に対立が現れ、このとき全体性こそ中心と実体性との統一である。主観的なものが客観的なもの、実体的なものに対して自分を主観的なものとして知るという意味での統一である。この理念こそ全体性である。神性と人間性との統一、人間と神とは一つのものである。主観のこの一者または向自有が、その直接的な在り方を捨てて、自分を実体的なものと同一にするのが精神の行程である。この人間の目的が人間の最高の完全性だと言われている。彼岸に対する直接的な知識信仰直感憧憬である。絶対者を精神と考えるようになること、絶対者である普遍者が概念の限りない慈悲として実在の中に自由に自分の諸規定を自分の中から放出すると共に、これらの規定に必ず自分を刻印して自分を伝える。従って、そこでは各規定そのものは互に無関心に、或いは互いに抗争するものとしてありうるが、これらの全体性はただ一つである。これらの全体性は即自的潜在的にも向自的顕在的にも同一的である。思惟または主観性と真理または客観性との統一が立つ。自然的な人間が真なるものを自分が直接的に信ずる。知識と真理との統一は、予め立てられ、同時に主観は感性的意識の直接的な在り方を超えて、思惟によって真理を獲得する。それぞれの行為が目の前に存在している。自分自身に帰る。向自を経ることによって自分自身の真相を明らかにして自分の所に自分の許にある。自分の許にあることは即且向自有においてのみありうる。有情の組織は身心の両者から成る。神我を抱合し認識力と活動力とを備えた一有情が成立される。有情は特殊化された神我である。東洋の宗教での宥和の方法は主として色々の自然形態が人格化されて尊崇されるという形をとる。東洋の意識は自然内容を超越して無限的なものにまで自分を高める。最も深く感性そのものに没入することが神への奉仕とせられている。思想こそ自分の中で脈動していて、そこから進んで自分の世界を創造するものなのである。主観が主観としてありながら実体的なものの中に生きる。自我のこういう自分の許にあること、こういう人格性、無限性が精神の存在を形成する。あらゆる哲学の実体的根底は、ただ益々深く自分の中に入り込んで行く。同時に諸規定の発展を通して自分を示現し意識させる。各々は統一の中で他者でもあり対立した契機が各々全体性に高められる。意識の中だけでなく現実にもそうなるという訳だ。若鷲は独立に真理の太陽に向って飛び立つ。哲学は宗教を理解する。哲学は合理主義と超自然主義をも理解する。その上に自分自身をも理解する。概念は、まさにそれ自身において直ちに自分自身の反対であると共に、また他者の中において自分自身の自分との統一である。自分自身を対象とする思想は、また自分の形式に即ち思想自身
