絶対圧倒超人的な脳のパワーで英語も為替リバレッジも出来るようになりたい。
１６歳では絶対圧倒超人的な脳の力でパワーで乱読速読していたのに、今はキツイ、今の脳力も１６歳に中心核にあるからだ、16歳も軌跡道程も今中心核枠であるという真実現実がある。我意の高揚が悪なのであることは以下のことから明らかになる。普遍的なる意志としての自己を同時に特殊的かつ被造物的となさんがために、自己の超自然性の外へ歩み出る意志は、原理間の関係を転倒し、根底を原因の上に揚げ、自己が中心のためにのみ保持している精神を、中心の外に、また被造物に対して使用しようと努める。その結果、その意志自身の内にも外にも混乱が起こる。人間の意志は、諸々の生きた力の紐帯と見なさるべきものである。それで、その意志自身が普遍的意志との合一のうちに留まっている限りは、それらの力もまた神的な節度と平衡とのうちに存するのであるが、我意自身がその座たる中心から離れるや否や、諸力の紐帯もまた離れ、それの代りに単なる特殊意志が支配する。従って、自己自身だけの隔離した或る生を形作り或いは組み立てるように努めねばならぬ。諸力の最初の紐帯、すなわち自然の根底は、悪においてすらもなお存続する。普遍疾病なるものは、隠れたる諸力が開かれてくるということであり得る。それが発生するのは、深底の静けさのうちに諸力の最奥の紐帯として統べているべき感応的原理が自己自身を現勢化する場合である。或いは刺激された神霊が中心にあるその安らかな居処を去って周辺へ歩み出る場合である。これに反して根源的な治癒はすべて中心に対する周辺の関係を旧に復することに存し、また疾病より健康への推移は、本来ただ前と反対のことによってのみ、すなわち分裂せられた個別的な〔普遍的生を離れた〕生を、再び本質の内的閃光のうちへ回収することによってのみ起こり得る。その再開収から分開（危機）が再び結果する。特殊疾病が発生するのも、全体の内に留まるということのためにのみその自由と生とを持っている筈のものが、自分だけで存在しようと努めるからである。疾病は本来は生の仮像であり単にその気象的現象、有と非有との間の或る動揺であるが、それが我々に感受される場合には頗る実的なる或るものとして現れる。悪についての唯一の正しい概念、すなわち悪は原理の積極的なる逆倒または転倒に基づくという考え方、深味ある形而下的類比、すなわち疾病の類比、によって解明した。悪をなし得るのは、目に見得る一切の被造物中の最完全者たる人間のみである。一般的にいって、自我性または個別性はあらゆる被造物的な生の基底、土台、或いは自然的中心ではあるが、しかもその中心が、仕える中心であることをやめ支配的となって周辺に歩み出るや否や、我欲、利己主義（炎焼された自我性）のタンタルス的憤怒としてそこに燃える。一つのものが自己を分かつ。或いは述語となるものが一つのものから帰結し出る。その時そのもの自身は主語となる。畳み込まれて一つになっていたものが拡げ出される。しかしかく分かたれても本来の同一性は保たれている。反省的に見られるとき、発展分裂の方面が主観的作用となり、本来の統一的方面（両者に通ずる本質の方面）が客観的内容となる。かく判断を具体的にすなわち主語述語未分以前の同一性が展開したものと見ることが、判断の実的な（単に主観的と反対の）見方である。彼は神は唯一にして一切である、不動、不変、全知であり、その全体が眼、全体が耳、全体が思惟である、という一般的汎神論を唱えた。全体と個別との関係、統一と多との関係、積極的なるものは常に全体または統一であるこれに対立するものは全体の分裂、諸力の不調和または失調である。分裂された全体のうちには、一致した全体のうちにあったと同じ諸要素がある。両者のうちの実質的なるものは同じものである。両者における形式的なるものは全く異なる。善に対する狂熱があると同様に悪の神来もある。人間の置かれている所は、そこにおいて彼が善と悪とへの自己発動の源を平等に含んでいるかの頂である。すなわち彼のうちなる両原理の紐帯は自由な紐帯である。彼は分岐点に立っている。神は必然的に自己顕示する。精神としての神（両原理の永遠なる紐帯）は最も純なる愛である。神自身は存在し得んがためには或る根底を己の内に要する。
