豹変！！
新陳代謝が活発だ、それによってより強く深く世界と繋がり何処までも広げ広がって行ける、それなら女子供は自然当然当たり前な流れの筈だが？その時までに未知の状態、彼は切羽詰まった方がやれる捗る。不思議なことに、とても充実した時間が流れた。気力も漲っていたし、あらゆるコトに純粋な気持ちで対応できた。一瞬一瞬を真剣に過ごせた。反省は統一に復ろうとする作用である。哲人程内省的であり、統一に復る復る程幽玄である。およそ存在するものはすべて何らかの内容をもって構成されている。その全体を構成している部分と部分、部分と全体との円満な調和と秩序、これを「礼」という。近世哲学の完成は、ヘーゲル哲学である。だから、新しい哲学の歴史的必然性と弁明とは、特にヘーゲルの批判と結びつく。純粋な知性的客体存在であるような存在だけが、近世哲学にとってヘーゲル哲学にとっても真の存在、絶対的存在、神である。以前の哲学者や神学者たちは、真の存在、神的存在を、本性上、それ自身、感性または物質から引き離され解放されている存在と考えていた。彼等は、それ自体において感性的なものから自由であるものに到達するために、それを捨象しそれから自由になるという労苦を自分自身の内へ移し入れていた。こうした自由の境地を神的存在の浄福と考え、自己をこのように自由にすることを人間存在の徳と考えていた。これに反してヘーゲルは、この主体的な活動を神的存在の自己活動とした。神が自分でその労苦を引き受け、異教の英雄達のように、徳を通して自分の神性を戦い取る。物質からの自己解放が神の内に定立されうるのは、同時に物質が神の内に定立されている場合に限られる。神が物質を自分で神の内に定立する。自分の他者として定立する。物質は精神の自己外化である。かくして物質自身は、精神と知性を得、絶対的存在の中へ、その生命、形成、および発展の一契機として取り入れられている。自己外化から自己を回復する存在、すなわち自己から物質、感性を脱ぎ捨てる存在が、初めて完成された真の形態の内にある存在と言われる。シェリングにおいては、神の内の自然は、神のうちの神的以外であり、神の内は神の外である。デカルトにおいては、肉体が、たとえ自我、精神と結合していても、自我の外にあり、それが自我と結びついているかいないかは、どうでもよいことである。物質は依然として哲学が真の存在として前提している存在との矛盾のうちにある。神学が哲学を通して再び立て直される。神は、物質という神の否定を克服し否定することによって初めて神となる。ヘーゲルによれば、否定の否定こそ真の肯定である。したがって我々は結局最初の出発点にキリスト教の懐に戻っている。ヘーゲル哲学の最高原理のうちには、哲学は神学の諸講義を合理主義の否定から再び立て直す。ヘーゲル哲学の弁証法、神学が始めと終りをなし、哲学が最初の肯定と否定として中間に立つが、否定の否定は神学である。デカルトの場合のように、最初にはすべてがひっくり返されるが、それから再びすべてが元の場所に置かれる。ヘーゲル哲学は、失われ没落したキリスト教を哲学によって、一般に近世においてそうであるように、キリスト教の否定をキリスト教と同一視することによって復興しようとす、最後の大規模な試みである。精神と物質との、無限なものと有限なものとの、神的なものと人間的なものとの、大いに誉めそやされた思弁的同一性は、近世の不幸な矛盾・・信仰と不信仰との、神学と哲学との、宗教と無神論との、キリスト教と異教との、それらの最も高い頂上での、すなわち形而上学の頂上での同一性である。神的本質が、自然の制限から解放された人間の本質である。
