自我も枠から中心核に移す移る移動する。中心核こそが全体こそが自分である。
枠の過去に繋がっているのだけは確実だから、枠の過去だけは枠である。無限の過去と無限の未来に繋がっているから、過去の枠だけは枠である。16才を軌跡道程を全部の時期あらゆる頃あらゆる時の自分を今の自分に引っ張り出し上げ一つに合一する。過去の自分さえ今の自分であるなら、また絶対的圧倒的に優れられる筈だ。16才も過去の自分も今の自分で包み込み込まれている。過去に繋がっているから過去に遡り過去を我がものとし過去も枠となる。もういい加減にゴミ人間を終わって女を抱き捲る。16歳丹田から全部の時期あらゆる頃あらゆる時の枠が今の枠に積み上がり重なっている。何層何重幾層幾重無限層無限重に今枠に積み上がり重なっている。軌跡道程の時空連続体という形で中心核が今の枠である。心の中の軋みや矛盾に向き合いながら書いた。激しい競争に挫けそうになったり、様々なストレスに陥りがちな現代人に対して、励ましの言葉と勇気、そして自己変革、自己再生のきっかけを与えてくれる。中心的位置を占める「精神」の概念がいかに深遠にして雄大な概念を持つか、真の精神とは何か、彼がなぜそれを精神として捉えたのかを明らかにする。精神が時間及び空間がもっている諸制限ならびにあらゆる有限な連関から解放される。精神は我々に対しては自然を前提としてもっている。精神は自然の真実態であり、そのことによって自然の絶対的優先者である。そして精神は自覚（対自存在）へ到達した理念、すなわちそれの客観が主観と同じく概念であるような理念であることがわかった。精神は同時に専ら自然からの復帰としてこの同一態である。精神の概念は、精神とは自己を知る現実的理念であるというふうに説明された。哲学は哲学のその他のすべての概念と同じようにこの概念を必然的なものとして証明すべきである。一般的概念または論理的理念の発展の成果として認識すべきである。精神哲学は自分の方で精神の概念を精神の概念の発展と実現とを通して確証すべきである。精神の概念を確定するためには、我々は理念を精神にしているところの規定性を説明することが必要である。しかしあらゆる規定性は専ら他の規定性に対立して規定性である。精神一般の規定性には自然の規定性が対立し同時に捉えられる。観念性とは、理念の他在を廃棄し、理念が自分の他者から自己へ復帰するおよび復帰していることである。精神も外的自然も理性的であり神的であり理念の表現である。しかし自然においては理念は相互外在の境位において現れ、精神に対しても自己自身に対しても外面的である。なぜかといえば、精神の本質を形成しているものは独立的に存在している内面性であるということによって、理念は自然においては精神に対して外面的であるということは、この内面性に対して外面的であるということだからである。自然的なものは空間的なものであり且つ時間的なものである、すべての自然的なものは際限がない相互外在の関係にある、更に物質、自然の中に現存しているあらゆる形成の一般的基礎、自然を合成している物質的原子、に分離している。我々はこのことを知っている。自然の概念が展開されることによって生ずる諸区別は、多かれ少なかれ相互に対して独立な諸々の現実存在である。これらの現実存在はもとより根源的統一性によって相互に関係を結んでいる。自然においては自由より必然性が支配している。必然性とはまさに、それの最も本来の意義においては、諸々の独立的な現実存在が相互に対してもっている単に内面的な、そしてそのためにまた単に外面的な、関係であるからである。生物においては無生物において支配している必然性よりもいっそう高度の必然性が現れる。植物において既に、周辺に注ぎ出された中心、諸区別の集中、内から外へ向かっての自己発展、自己自身を区別し且つ芽の中の区別から自己自身を産出する統一、したがって我々が衝動を帰属させる或るものが現れる。しかしこの統一は依然として不完全な統一である。なぜかといえば植物の分肢化過程は植物的主体の自己外脱出であり、各部分は全植物の繰り返しであり、諸分肢はそれ故に主体の統一の外にあるからである。動物有機体は外面性のなおいっそう完全な克服を表現している。動物有機体においては全体は自分の統一性によって浸透されている。動物は規定性のなかにあっても自分自身のもとにあることによって、自分の外面性のなかで且つ自分の外面性から直接に自分の中へ反省していることによって、独立的に存在している主観性であり且つ感覚をもっている。感覚とはまさにこのように動物のあらゆる分肢のなかに動物の統一性が遍在していることである。一つの全体は動物において現勢的になり始めている。動物のあらゆる分肢は各印象を直接に一つの全体に伝達するのである。主観的内面性の中には、動物は外から規定され、自己自身によって内から規定されている、動物が衝動および本能をもっているということが含まれている。動物の主観性は矛盾を含み、且つこの矛盾を廃棄することによって自己自身を維持しようという衝動を含んでいる。この自己保存は生物の特権であり、且つなおいっそう高い程度において精神の特権である。感覚するものは規定されている、すなわち内容をもち且つそのことによって自己内に区別をもっている。区別の廃棄が起こるのは、動物が外面的自然の中で動物のために規定されているものを食い尽くし、且つこの食い尽くされたものによって自己を維持するということによってである。動物に対立する他者を破壊することによって、自分自身に対する根源的且つ単純な関係が措定され、そしてその関係のなかに含まれていた矛盾が新たに措定される。この矛盾を真実に解決するためには、性関係、自己自身または両者に共通な類を感覚する。性関係はそれ故に生きている自然における最高点である。この段階においては生きている自然は最も完全な度合において外的必然性を脱却している。相互に区別されつつ関係させられている諸々の現実存在は統一性の感覚をもっている。こうして自然は、有限性に対する超越の最高の先端においてさえも、常に再び有限性に復元し、且つこういう仕方で絶えざる円周を表現する。自然が自己を高揚させて生ずる最も完結した形態よりも、概念は自己の心的な本質に等しい現実態に到達する、自己の現存在の外面性の完全な克服に到達する、この克服は精神において始めて起こる。精神はまさに自分の中で現れるこの克服を通して自分自身を自然から区別する。外面性のこのような廃棄は精神の概念に属するのであるが、この廃棄は我々が精神の観念性と呼んで来たところのものである。精神のあらゆる活動は外面的なものを精神そのものである内面性へ復帰させる色々な仕方である。精神が精神でありまた精神になるのは専らこの復帰、すなわち外面的なもののこのような観念化または同化によってである。
