軌跡道程から16才に集め集まるように、枠から丹田に集め集まるように、軌跡道程たる人生そのものである枠の全身から16歳である丹田に集め集まる。嘗ての全部の脳細胞も完全復活する。この世界は変化と混沌と多様性に充ち満ち、宇宙は光を越える速さで膨張し続けている。俺は全体という一つの独り一人の一者である。生命の維持には、環境の或る要素を変形することが必要である。生命の形態が高級であればあるほど、環境の能動的再構成が重要になる。有機体は、単純であれ複雑であれ、自分の構造に応じた方法で環境に働きかける。その結果、環境に生じた変化が、有機体とその活動とに反作用する。こうして生物は、自分の行動が生んだ結果に出会い、その結果を受ける。この能動と受動との密接な結合が、経験と呼ばれるものを形作る。古い経験が、新しい改良された経験を育てるための目標や方法を暗示する。新しい、より優れた経験を未来に構成するために過去の経験を利用する。経験という事実そのものが、経験が自らの改良へ進んで行く過程を含んでいる。具体的な着想が過去の経験から生まれ、それが現在の必要と不足という光の中で発展と成熟とを遂げ、特定の再構成に目標および方法として使われ、再適応という任務における成功や失敗でテストされる。この新しい目的のために構成的に使われる経験的な着想に対して、知性という名称が与えられる。満足と喜びとを与えるために、現在の感情を満ち足りたものにし、意識的生命の流れを強め彩るために、過去の経験から生まれる着想は、楽しい部分を増すように仕上げられる。道徳的修養に要する努力の大部分は、自分の過去及び現在の行為の生んだ不快な結果を認めるのに必要な勇気にある。もがいたり反らせたり胡麻化したり惚けたり隠したり口実や弁解を探したり、心の風景を少しでも気持ち良くしてくれるものを探そうとする。自然発生的な着想は、経験を理想化し、諸性質を意識の内で与える。時間と記憶とは真の芸術家である。気に入るように実在を作り変える。想像力が自由になり、理想化の傾向は、散文的な世界の手綱を放れて高く飛翔する。現実の生活における困難と失望とが、空想の中では堂々たる成功や勝利になる。事実においてネガティヴなことが、空想の描くイメージにおいてはポジティヴになる。行為において苦悩であるものが、理想化する想像力の中では綺麗に償われる。個人の真理であり、本質的に観念的な性質を持つ究極の最高の実在という観念にとっても決定的なものである。強い力と完全な美と円満な知恵とをもって、人間が正に生きたいと望むように生きるものであった。究極的実在は、本性において完全に観念的であり合理的である、絶対的な観念性と合理性とをその必然的属性として持つ。変化のあるところ必ず不安定があり、不安定は何か問題あり欠けたところ足りないところ不備なところのある証拠である。これは変化生成消滅を非存在有限不完全と結びつける場合に共通した考え方である。完全な真の実在は、存在に満ち、常に安静のうちに留まっている。変化は実現への傾向である。中心核は16才から進化成長発達発展し続けている、抜け殻残骸枠を取り込み入れ出来上がる完成する。枠こそが最後の欠片ピースだ。永遠なるものと移ろうものとのこうした対比から、究極的実在を実際生活の不完全な実在から区別する他の諸特徴が現れて来る。変化のあるところ必ず複数性多数性があり、多様性からは対立抗争が生まれる。変化とは「他のものになること」であり、相違を意味する。相違は分裂を意味し、分裂は二つの側面とその闘争とを意味する。移ろう世界は不和の世界であり、安定を欠くが故に一者の支配を欠いている。一者の完全な支配があったら、一つの不変な全体があるだけであろう。変化するものには、色々な部分があり部分的な偏りがあって、これらのものは勝手な自己主張を行って、人生を闘争と不和との舞台たらしめる。究極的なる真の実在は、全体的なるもの、一切包括的なるもの、一なるものである。一なるものである故に調和であり完全な永遠の善を享受する。それは完全性である。認識及び真理の諸段階は、一つ一つ、実在の諸段階に対応する。実在が高く完全であればあるほど、それに関する認識は、ますます真理と重要性とを増す。流れる生成の世界を認識、統一と限界とを与える永遠の形相を認める。不動の対象を研究する場合は、認識は真の意味で論証的な確実な完全な純粋無垢の真理になる。天は地よりも正しく認識され、動かすところの神は天よりも正しく認識され得る。実践的認識に対する観想的認識の優位、実験に対する、事物の変化に頼り事物に変化を生むような認識のすべてに対する認識のすべてに対する純粋理論的思弁の優位である。純粋な認識とは、純粋に眺めること、見ること、眼を向けることである。それは、それ自体で完全である。純粋認識自身が最も有力な存在理由なのである。実際、純粋の観想的認識は、宇宙の中で最も自己完結的で自己充足的なものであるが故に、存在の段階における最高の存在たる神にのみ帰することの出来る最高の唯一の属性である。人間自身は、純粋に自己充足的な理論的洞察に達する稀有の瞬間に神的なものになる。欲求、欲望など、あらゆる種類の心の動きは、欠けたものがあることを教えている。必要や欲望がある場合は、必ず、すべての実践的な認識や活動の場合のように、不完全な不充足とがある。純粋認識は一人孤独なもので、完全な自己充足的な独立のうちに行われ得る。認識の価値の尺度は、純粋に観想的である程度と同じになる。最高段階は、究極のイデア的存在、純粋な精神の認識において達せられる。すべての欲望が満たされている。それは完全な存在であるから完全な精神であり完全な幸福である。合理性と観念性との極致である。この究極的実在性（これは同時に究極的観念性である）を取扱うような種類の認識が哲学である。それゆえ哲学は、純粋の観想における最後の最高のものである。究極的実在を純粋に自己充足的に眺める。学習が行われる場合には、変化や生成がある。けれども、哲学の研究や学習の機能というのは、物のイメージや生まれては亡びる低い実在に満ち足りている状態から魂の眼を引き離して、天上の永遠な存在の直観へ向けることにある。こうして、認識者の精神は変わる。精神は、それが認識するものに同化される。人間の目的は真の存在の認識であること、認識は観想であること、真の存在は純粋の精神であって、それの認識は幸福であり救済である。超自然的な助けから、それが成就した暁は、人間の精神を神の本質に同化する。
