魂で宇宙空間を旅してます。
自然の内奥に潜む生命が滔々と心の中に流れ込み歓喜に胸を踊らせる。ああ、言葉で言うなら愛とか悦楽としか名付けようがないあの強烈な感情が、さながらすべてを覆い尽くす靄のように心の中に押し広がり、そうして甘美な不安におののきながら、誘いかけるような自然のほの暗い懐に身を沈めると、貧弱な個性などは打ち寄せる歓喜の大波に呑み込まれてしまい、あとの大海原にはただ、すべてを呑み尽くす渦潮だけ、無限なる産む力の焦点だけが残る。実在的であると同時に象徴的なものとなる。物の全体を世界と呼ぶならば、私は世界を統合する構成部分の一方を自分の内部に、もう一方を外部に持つことになる。理論的には、この感官に関しては、私は世界から影響を受け、それに左右されていると思われる。この感官に関して言えば、私は更に、自分が世界の構成部分として共同作業を求められているのを見出すだろう。私の感官もしくは身体が、一部はそれ自体によって、一部は全体の理念、全体の精神、世界霊によって規定されており、しかも両者は強く深く結び付いている。私の身体も全体の一変種をなすと思える。全体の認識と部分の認識が一体となって、反立から総合にいたる認識を形成する。この認識は直接的であると同時に、直接的なものを媒介することによって間接的でもあり、また、私の身体は、それ自身と同時に世界霊によって規定され活動させられている。私の身体は一個の小さな全体をなし、それゆえ、ある独自な霊魂を宿している。あらゆるものを一個の全体へと成していくもの、すなわち個体原理を霊魂と呼ぶ。特殊部分の活性化〔生気の吹き込み〕については、自分が専ら私自身を通して規定され、しかも普遍的な活性化によって間接的に規定されているのを見出す。活性化自体に関して言えば、我がものとする同化することである。自我とは固有化の原理である。我がものとすることは、自我の本性の根源的な活動である。異質なものを自己自身のものに変化させること、我がものとすることが精神の不断の仕事となる。何かあるものを自分の内に受け入れて初めてそれを経験できる。活性化とは、私自身の譲渡であると同時に、他の実体を我がものとすること、もしくは自分のものに変成し直すことである。このとき生じる新しい産物は、両者が混じり合ったもので、もとの二つの因子とは異なる。さて私は、私が我がものとした実体の変化を、どれも私の変化であると同時に、他者の変化として知覚する。そもそも私が実体の変化を知覚するかぎり、それは私の変化なのであり、また、実体がしかじかと規定されていると知覚するかぎり、それは他者の変化なのである。実体内部の活動のそれぞれに、私の内部で同時に起きる活動、すなわち知覚という活動は照応する。私の内部にある知覚する認識の性質は、実体内部の活動のどんな性質にも照応する。私は自分の内部に実体内部の活動力と同じ量の認識力があるのを識別する。私自身は、私が欲する通りに私を知っているのであり、私が知っている通りの私を欲する。私の内部では知と意は完全に一つに結び付いている。聖なる言葉は、発すれば妙なる歌となり、その抗いがたい音色はあらゆる自然物の内部へ深く染み入って、それを解きほぐした。その言葉による名の一つ一つが、それぞれの自然物の魂を解き放つ合言葉のようでした。その音の振動が、創造的な力を揮って、世界現象のありとあらゆる姿を励起させたわけですが、宇宙万有の生命とは無数の声で交わされる永遠の会話なり、とまさしく言い得た。聖なる言葉が語られると、そこではあらゆる種類の活動が、この上なく不思議な仕方で一つに結び合わされているように思えた。ある男が成し遂げた。奇跡の奇跡、自己自身を見た。人間はいつも自分の本質についての象徴的な哲学を、その仕事や行為のなかに表されて持っている。人間は、自己自身と自然の福音とを告知する。人間は自然の救世主である。二重の道、個別から全体から内面から外面から。自然の天才。優れた意味での修業時代とは、生きる術を学ぶ修業である。計画的に組み立てられた諸々の試みを通してその法則を学び、その法則に従って意のままに振る舞う巧みな技を習得するのである。妄想と真理の相異は、その生命機能の違いにある。妄想は真理を糧に生命を繋ぐ。真理はそれ自体において生きている。至高のものこそ、最も理解しやすい身近な不可欠のものである。奇跡は、自然法則に従った働きと相互関係にある。両者は互いに限定し合って一つの全体をなす。一つに結ばれる。生は死の始まりである。生は死のためにある。死は終わりであると同時に始まりであり分離であると同時に一段と緊密な自己結合である。死によって還元が完了する。想像力は、未来の世界を高みに置くか深みに沈めるか輪廻という形で我々のところに齎すかする。我々は宇宙万有を経巡る夢を見る。宇宙万有は我々の内部にある。内部へと神秘に満ちた道が通じる。諸々の世界を引き具した永遠、過去と未来は我々の内部にある。外界は影の世界であり影を光の国に投じている。我々の精神は乏しきに耐えてきた。暗闇が去って影なす物象が取り除かれれば 、どれほどすっかり変わって見えることか。我々はこれまでにないほどの楽しみを味わうだろう。天才とは、想像上の対象を現実の対象と同じように扱い、それを現実の対象のように論じる能力である。自分の外に出る能力、意識をもったまま五官の向こうに超え出る能力、超感性的な存在になる。生き生きとした力強い満たされた霊の真の顕現に対する信仰、最も真実で固有な生の直観、諸々の思考は法則に姿を変え願望は成就となる。自己形成〔教養〕の最高の課題は、先験的〔超越論的〕自己を我がものとし、同時に自己形成の主体たる自我の自我となることである。人間は、ありし日の姿が想起されることによってのみ、観念の中において生き作用を及ぼし続ける。自己の内に立ち戻るとは、我々の場合、外界を捨象することを意味する。類推的に言うなら、霊の場合は地上の生が内観となり、自己への潜入、内在的活動となる。地上の生はある根源的反省から、つまり、我々の反省と同じく自由な原初的な自己潜入、自己自身への集中から生じる。逆に、この世での霊的生活は、あの原初的反省の発現から生じる。霊は更に自己を展開し、もう一度自己自身から出て行き、先の反省を部分的にまた開始する。その瞬間、はじめて霊〔精神〕は「わたし」と言う。出ていく入っていくということが相関的、入っていくというのは外へ出ていくこと、再び初めの姿をとる。愛の対象はどれも楽園の中心をなす。頭が混乱していればいるほどたゆまぬ自己研究によって大きく成長することができる。混乱というのは有り余るほどの力と才能があるが均衡が欠けていることを意味する。混乱せる者は進展し完成する能力を備えている。混乱せる者は、自己への働きかけを通じて、あの天上的な透明さの境地に、自己照明の境地に至る。真の天才は両極端を結び付け、整然たる者とは迅速さを、混乱せる者とは充溢を分かち合う。学問における最良の部分は哲学的成分である。有機体における生命と同じである。
