魂の高揚から湧き出る。
魂は自らの幸福のための場所を自分自身の中に持ち、幸福を自分の中から無限の彼方へ投ずる。その幸福を無限の彼方から再び獲得するためだ。欠如の補完？生命感情の高揚、人間の有り余る豊饒さと自己超越の印だ。そこでは人間は自分にとって大きすぎる存在、この生の横溢、自己の力と生の充実の絶対化、一つの起源、形式に流し込まれた内容の一つだ。生の統一と全体性が確保されるように、それらの要素の中に自らを組み込み、すべての要素と相互関係を結ぶ。完全な経験的生活と感じているもの全体を表現し拮抗している。肢体であると同時に生命全体であり、存在の一部であると同時に、より高い内面化された段階では存在それ自身でもある。生の内部では、限りなく多様で対立に満ちた関係を結び、同時に生を超え最も高い次元において自分自身をも超え、生の要素として赴いたすべての葛藤の和解へと進む。人間は、自分の欲求とその満足の間の、当為と行為の間の、世界の理想像と現実の間の対立を和解させるために、宗教を必要としている。審判でありながら同時に闘技者として試合に参加する。生じた葛藤を自分自身の上級審として、もう一度新たに超えていく。いかなる瞬間にも統一、今まさに生成されつつある統一たりうる。あらゆる対立を和解しさせる。物質やエネルギーのたえざる転換は、あらゆるものを他のあらゆるものに関連付け、すべての個別的なものから一つの宇宙を作り上げる。結び付いていると感じられるものは、まずは何らかの仕方で互いに分離したものだけだ。事物は、一緒になるためにはまず離れ離れにならなければならない。人間が行動する際、この二つの作用はいずれのパターンで出会うことになるか、結合と分離のいずれが自然な所与と感じられ、いずれが私たちに課せられた仕事と感じられるか、それによって私たちのあらゆる行動が分類される。直接的にも象徴的にも身体的にも精神的にも、どの瞬間をとっても、結合したものを分離するか、あるいは分離したものを結合する存在なのだ。結合への意志は事物の形態となった。いったん形態となったものは、結合の意志さえあれば、いつでも反復使用のために提供される。常に繋がり続けている。始点と終点を結び付ける。道の奇跡、すなわち運動から固定した形態が出来上がり、一旦出来上がると今度は運動がその固定した形態へと流れ込んで行き、遂には固定した形態へと凝固していくというあの道の奇跡である。特殊な地形による積極的抵抗が、人間の結合意志に刃向かっているように見える。この障害を克服することによって、橋は私たちの意志の領分が空間を超えて拡大していく姿の象徴となる。「分離されている」と感じるのは私たちに特有のことだ。自然の概念は宛ら積極的な意図をもっているかのように、そこでは自然の要素間に恰も独立した存在として分離が介在しているように見え、今や精神がその分離の上に和解と統一の手をさしのべるのだ。嘗ては一つであった、別れ分離しさせてしまった、一つに戻る返る還るのだ。自己目的的存在から世界へと乗り出し、そしてまた世界から自己目的的存在へと戻っていく。私たちが住み着いている有限の世界は、常に何処かで形而下的あるいは形而上的な存在の無限性と境を接している。無限の空間の内で私たちに割り当てられた部分を、私たちは有限の統一体へと結び付ける。そしてこの統一体を改めて無限の空間へと結び付ける。限定されたものと無限定なものが絶えざる相互交換の可能性として結ばれている。地上と天上との間に浮遊するような奇妙な感覚を覚える。隔離された即自存在の限定性からあらゆる方向に開かれた無限定性へと生が流出していく。内から外へ向かうのも外から内に向かうのも、本来同等の権利をもつはずの生の運動が終りを告げ、そこで必要とされる唯一の方向性にとって代わられる。対立の一致、分裂の統一、神をこう名付けた。世界をこれほど無限な多様性へと発展させる動因となったものは、あくまで統一性としての神のなかに含まれている。あらゆる神秘主義の意義は、諸現象の多様性の背後に存在の統一を感じとるところにある。自身も一個の統一体であるがゆえに、直接自分の中で捉える。多様性や異質性を統一へと受け渡すのは自身の魂であり、それゆえあらゆる神秘主義は自我と神性との融解である。あらゆる個別要素を超越した全体の連関の中にこそ世界を超える力、神を認識する。対立は、より深い意味での秘密に満ちた統一を明らかにし、生物の統一的生命を担う様々な肢体として機能している。魂のあらゆる層から発する光線がその対象内部の一点に集まることによって初めて像を結ぶ。存在一般にとって神がそうであるように、内面生活の多様性にとっては宗教的心情が統一の要をなす。可能性においては人生のあらゆる瞬間に現前している。すべての活力の源泉である自分自身の土台、対立する方向から湧き出す様々な内面の流れが一つに合流する。愛情と疎外感、屈辱と享楽、陶酔と後悔、絶望と信頼が、経験世界の関係の中では断片のように入り乱れ並立しているように見える。それらを延長していくとバラバラに見えた線が一つの点に集まる。魂のあらゆる対立が一つの点に収束する。神を日々新たに深く完全に獲得する者は既に神をもっている。神が完全に魂の力の構築物となる。神はこの魂の力の中で私たちのために生きて居る。肉なるものは高められ精神化され理想に向かって純化される。全人格が神と和解することによって、その本質部分をなす掟と肉もまた互いに和解する。人間の本質部分相互の和解を目指し、全体を包摂する興奮を魂に伝達し、魂の受動的な層を溶解させ、精神的倫理的力のための形象を作り上げる。「私が変わる」という言葉には力がある。どんな試練も、自分が魂として成長するために与えられた大切な自己変革の機会と受けとめる。現実をつくった原因として自分の心を見つめる中で、そこに繰り返し現れている偏りが問題を生み続けたことに後悔を深め、その人だからこそ果たせる志と生きる願いの湧出が新しい問題解決の原動力となる。分断された心と現実を一つに繋ぐこの実践は、他を愛する心を呼び起こし、新しい時代への転換軸になる力がある。未来を見つめること、世界を見つめること、多様性のある世界こそがダイナミズムを生む。畢竟平安と幸福は我々の中にも外にも存在するところの神の中にある。神に辿り着く。私は私であり私の霊である。いかなる側面から神に近づいても皆同じである。私の思想も私の理性の本源も愛の本源も物質の本源も神である。霊魂に対する認識の場合も同様、自分への精進も真理への精進は、私の霊である。自分の善を愛する気持の原因も私の霊の中にある。いと高きものを認め、彼の心に記されている己の生命の法則を認めることこそ、神そのもの、神の顕現と言える。神は善き思想のなかに正しき言葉のなかに誠実な行為のなかに姿を現し、その息吹によって世界に至福と永遠性とを与える。神は我々の良心の中に人類の意識の中に、我々を取り巻く森羅万象の中にある。我々の意識、我々の良心は、悲しみや喜びの極みの瞬間、いつも神に呼び掛ける。この愛と交りにおいて我々は一つであり、また一つであろう。もうこれで終わることができる。静かに瞑黙して永遠の眠りについた。
