あらゆる全部の神経伝達物質は無限に増え、全神経が繋がり、脳細胞は無限に分裂分化発展し続ける。ドーパミンもニューロンも無限に増える。骨細胞も増え続ける成長期だから背も伸び延び続ける、骨延長手術だ。爪先立ちで背伸びすると物凄く大きく背が高くて摩天楼のよう・・16歳一点丹田から生まれ始まり広がる、枠（中心核全枠）、俺（そのもの全体全面）・・そのもの全体全面たる俺の中で内で内部で中心核全枠たる枠こそは唯一無二の光り輝く絶対圧倒超人的存在、主人公だ。科学的研究は精神と自然との間の対話、自然は我々に好奇心を起させる。我々は自然に質問を掛ける。それに自然は答えてまた新しい観念を暗示するというような具合で無際限に続く。有機化、即ち諸部分を生命現象の特質となってゐる全体に纏めてゐる特殊な作用に対するセンス、生活体で行われる事柄には様々の要素が集まってゐる秩序を説明する或る『観念』が介入しているように見える。長い間哲学者は事象を体系的な全体と考え、事実我々は観察及び実験の助けを借り専ら推理の力を働かして思考により厳密に構成し直すことの出来る大きな建築物と考えて来た。そうだとすれば自然は人間の論理の原理に従って互に組合わされる法則の全体となり、それらの法則はすっかり出来上ったものとして事物の内部に含まれ、科学及び哲学の努力は丁度人が沙漠の砂をシャベルで掘り起してエジプトの建造物を発掘するように、法則を包んでゐる事実を一つづつ掻き落して行って法則を発見することになる。哲学者が人間の科学にある約束符号的な点を強調する前に、クロード・ベルナールは人間の論理と自然の論理との乖離を認めて測った。我々の観念は我々が現象の中に進み入ることを助ける悟性的な道具、長く使って鈍くなったメスを換えるように役目を果たした観念は換えなければならない。生理学者を導いて事物に対する虚偽の単純化に到らせる過大な推理に対する信仰は、自然現象の複雑に対する意識の欠如に基づく。我々が科学に於て一つの普遍的な理論を立てる際に確信する事、それらの理論は部分的暫定的な真理であり更に探求に進むために休息している段階として必要なのである。これらの理論はやがて、その問題の更に進んだ状態を示す別の理論に取って代わられ、その先も同様に続く。理論というものは科学がその限界を拡げながら登って行く次々の階段のようなものである。具体的な事象は、無機的な物質の中に嵌め込まれて生命を持ち意識を持つ存在を含んでゐる。生活体が原則上意識を持つと考える。植物体のように意識が眠ってゐる領域に於てさえ規則的な進化、限定的な進歩、老衰があり、要するに意識の特質となってゐる持続というものの外的な徴候をすべて示してゐる。古代の人々は物質的宇宙の連続的な実在を保障する世界精神を考えてゐた。無機的世界とは、見える且つ予見される様々の変化に帰する無限に速い繰返し若しくは繰返しのようなものの系列だと云いたい。生活体は本質上持続し、それが持続するのは正にそれが絶えず新しいものを仕上げ、仕上げには必ず探求があり、探求には必ず模索があるからである。時間は正にこの躊躇である。宇宙の次々に起る状態は理論上予め計算できるもので、映画のフィルムの上に並べて置かれた回転よりも前にあるイメージのようになってゐる。時間は仕上げの仕事、時間は創造及び選択の乗物、我々は自分たちの生活の加工者として欲する時には芸術家として過去及び現在が我々に提供する物質を以て遺伝及び周囲の状況によって彫刻家が粘土に與へる形のように獨特な新しい獨創的な姿を絶えず捏ね上げる仕事に掛かってゐる。我々の行動が果たされる様々な条件の中から我々の行動の支えとなる手法や規則を我々に與へるものを悉く抽き出す。正常な認識能力は本質上事象の流にある安定的規則的な点を抽き出す力である。知覚は例えば光とか熱とか無限に繰返す動揺を捉えて、それを幾つかの感覚に纏める。何億という外的な振動が一秒の何分の一かに一つの色の視覚を我々の目に凝集する。思惟の場合、普遍的観念を作るというのは、雑多な変化する事物の中から共通な面を抽き出すことである。理解の場合、過ぎ去る事実の間に連関を見出し安定的な関係を定め法則を抽き出す。その関係が厳密で数学的であるほど一層完全になる操作である。これらすべての働きが悟性作用を構成している。悟性作用は規則的安定性を好む、事象のうちにある安定的規則的なところ、その物質性に留まる限り眞である。その際悟性作用が絶対の一面に触れるのは我々の意識が我々の中で新しいものが絶えず花と咲くのを捉えたり、若しくは拡がって行って自然の無際限に新しくする努力と同感する際に絶対の別の面に触れるようなものである。哲学の大問題は実際、我々が創造であることを製作にしてしまうところから生ずる。事象は全体として一つの成長、漸次の発明、持続である。我々が直接知覚する事象は絶えず膨らんで行く充実である。事象には持続があるように拡がりもある。具体的な空間は事物から抽き出して来たもの、空間が事物の中にある。中身に無限の深みを感じる。脳も身体も全身全部の力を使い切り尽くし果たし意識ぶっ飛んだな・・手が長いね、無限の握力で拳の中にも宇宙を感じる。全体を直観する。生まれてから16歳から今まで枠だから、常に軌跡道程で頭脳精神肉体も全盛絶頂期なのだ。全身の全能力が最大に高まる、充溢充満充実と大爆発だ。女を抱きたい、性欲も丹田から来るとすれば挿入して一つになって子宮の奥で絶頂に達し昇天した時に16歳丹田に成れるかも・・林彩の子宮の奥で爆発したかった。人が幾つかの欠如を全体的なものにしようとする際の眼の前に見るのは、ただ新しい順序に列べ替えた幾つかの全体である。所謂絶対的空虚の表象は実は、一つの精神が部分から部分へと飛び移る時に考える普遍的な充実の表象である。つまり無の観念は全体の観念と同じだけの物質を含んでいる上に思考の操作が尚加わっているということになる。錯覚は、充実の観念よりも空虚の観念の方がものが少く、秩序の概念よりも無秩序の概念の方がものが少いと信ずることである。ところが実は、無秩序及び虚無の観念が何かを表す時には、秩序及び実在の観念よりも中に多くの悟性的内容があるというのは、それらの観念が多くの秩序、多くの実在を含む上に、無意識にそれらを手玉に取る精神の戯れが入っているからである。可能的なものは事象的なものよりも少く、従って事物の可能性はその実在に先立つ、という思想がある。そう考えると事物は予め表象されるものとなり、事象化（実現）される前に思考することが出来ると考えられている。しかしその逆が真理なのである。具体的な事象の全体、又は単に生命の世界、況して意識の世界を考察すれば、次々に起る一々の状態の可能性の中にはその事象性の中よりも物が多くあることを見出す。可能的なものが事象的なものの他に、その事象的なものが一度生じた上はそのイメージが過去の中に追いやる精神の作用を含んでいるからである。未来が現在に働きかける。現在が過去の中に何か持込む。作用が時間の流を遡って逆に標を附ける。過去の中に可能的なものを置く、可能的なものはどの瞬間にも独りでに過去の中に入り込む。
