いよいよ本格的に本当本来の自分になる。後方から凄まじい猛烈な追い上げをする奴がいる。
真の知者は神のみである。善美の事柄について無知、この無知の知こそ人間的知なのだとソクラテスはいう。無知を自覚した人間は知ることを求める。それは知に対する憧れであり愛慕、それゆえ無知の知は哲学への出発点であり契機なのである。知に対する憧れ愛知（フィロソフィア哲学）、人間にとって最も大切なことについての知の探求、無知と思い込みドクサに対する戦いである。自然哲学が行った根源への探求はソクラテスにおいては人間の生き方の普遍的原理への探求となった。プラトンのイデア界、現実界は変化を特質とする感覚現象的世界、イデア界は不変を特徴とする理性英知的世界、善のイデアは、すべての存在の根源にあって支えている根拠、事物を理解しようとする認識の根拠、太陽がその熱で万物を養い育て光で万物を識別させてくれているのと同じである。アリストテレスによれば、存在するものは生物と無生物に分けられ、その基準は魂の有無、魂は生物の形相、肉体物体はその質料、人間は魂も栄養的感覚理性的機能をもち全てを包摂しながら理性的機能において人間的となる。知恵は理論理性的、思慮は実践的理性ともいえる。自然に従って生きよ、宇宙の理法に従い自らの理性に従って生きる。預言者（神の言葉を預かる者）、予言者（未来のことを予め告げる者）、時は満ちた、神の国は近づいた。悔い
改めによって人々の心の中に生まれ出る、神の愛に満たされた精神の王国であった。４世紀初頭、ローマ帝国はそれまでの迫害政策を転換しキリスト教を承認した。帝国の一体化を求める皇帝は、多様な宗派より国家公認の統一的宗教を望んだ。ニケーア公会議（宗教会議）でアタナシウス派の理論が正統とされ、神と神の子イエスと聖霊は同じ一つの神の三つの位相であるとする三位一体説であった。このアタナシウス派キリスト教がローマ＝カトリックである。ギリシア語のラテン語化が語源、遍く、ローマ世界に遍く広まった宗教という意味である。現代の思想も多彩であるが類似した思想が古代インドに見つかる。自由な思索を展開した、ヴェーダに付属するウパニシャッドの輪廻転生の苦しみ、そこからの解脱、輪廻から離脱し悟りを得る。深い内省的な思索が見出される。伝統的な価値や秩序が動揺する時代にあって様々な新しい思想が生み出された。一切の生きとし生けるものどもに対しても、全世界に対して無量の慈しみの意を心を起こすべし。上に下に横に慈しみを行うべし。この状態を崇高な境地と呼ぶ。義の行いが積み重なって体の内に生じたもの、浩然気、真っ直ぐに育てると何よりも大きく何処までも広がり何よりも強く大きな気分に満たされる。浩然の気を養うことで大勇をもち大丈夫（立派な男子）としての誇り高い生き方が出来る（孟子）。朱子学、儒学とはいえ人間を超えた宇宙や大自然をも取り込もうとする形而上学、新儒学とも称される。朱子学によれば、万物は理と気の二つの原理から構成され（理気二元論）、理は世界のすべての事物を貫く秩序の原理であり存在の根拠、気は一種の活力をもったガス状の物質的存在である。万物は、この理と気が結びついて成り立っているとされた。朱子学では人間の心を性と情に分けた上で、性が心の本体であり理（性即理）、気には清濁厚薄精粗など様々な違いがある。理は気との結合を通して自己自身を現す。人間の性は理をもちながら気の歪みも同時に背負っている。陽明学の王陽明は、情の働きを含む人間の心が、そのまま理であるとする心即理の理一元論を主張した。生まれながらにどのような人間の心にも備わる良知を窮める（致良知）を目指した。知と行の一致を求め（知行合一）、感情と一体となった現実の人間、理を体現しようとする心の主体としての人間を求めた。天地と我と並び生じ万物と我と一たり。無為にして尊き者は天道なり。有為にして累わしき者は人道なり。君の天地の間に在るは、なお小石小木の大山に在るがごときなり。自由の境地に生きる（逍遙遊者）を、荘子は真人（至人）とよんだ。儒家思想は理性的現実的な面が強い。感情や本能は勿論のこと石ころや虫でさえも同じ地平に取り込む老荘思想、猛威を奮う自然と安らぎを恵む自然、人間の外に広がる自然と内なる自然、対立的視点で自然を見ることの限界が明らかとなった今、老荘思想は自然と人間の閉塞状態を照らし出している。完全なものへと高まろうとする愛、プラトンによって哲学にまで高められた愛、エロース、イデアを目指す愛、とてつもない力が発揮され完全なものを得ようと上昇する愛に導かれる充実感は大きい。イエスによって人間を愛の共同体に導く原理、アガぺー、神への愛である。生きとし生けるものへの愛、慈悲、世界を相互依存関係と見る縁起の法から導かれる。大自然の中に宿る微細で多様な声音、種々の色彩・形態、神秘的リズム、その中に生きる人間の生の真実、いずれも芸術の素材たりえ、そうした自然や人間の内に宿るものへの驚異や共感、人間的感受力をもって芸術的美の発見と創造を行ってきた。自然はそれ自身が秩序の原因であり自然のすべての作品には目的が見出される。心静かに自然の美しい秩序に触れることが人間理性の働きとされている。古代イスラエル人は自然の秩序の内に神の業を見た。存在するすべてのものは神によって創られたとされている。人間は自然よりも上位にあり自然を支配する特殊な地位を与えられる（傲慢の罪）。ニーチェやベルグソンは生き生きした生の復権、絶えず自分を創造する自由を求めた。知は力なり、アリストテレス以来、知識は人類によって奉仕されるべき最高目的であった。ベーコンは知識を人生に奉仕する力と考える。ベーコンは力を我々が現実の生活を処していく上での力と考えている。知識は手段となった。自然に服従することによって支配する。組織立て系統立てられた実験観察に基づいて行われる法則の発見方法（帰納法）、人間の知識と力とは一つに合一する。確固たる決意を自己自身の内に感ずる。神の被造物と考えられた人間を世界の中心に置く、自己あるいは自我について新しい視点をもたらした（デカルト）。自己を自己として自覚する存在だという発見であった。明白に真と認められる根本原理から出発し理詰めで推論を進め個々の特殊な結論を導き出す（演繹法）。神に酔える者、スピノザは神のみを唯一の実体とした。物体と精神とは無限に多くの性質をもつ神がこの世にその性質を現した場合の在り方、両者には平行関係がある。自然における万物はすべて神が原因で生じている。スピノザは神すなわち自然と考えた。万物は神を原因として存在し自然すなわち万物に神が満ちていると考える思想を汎神論という。思索は、自己を力強く検討し行使することのできる人にとっては強力な充実した勉強である。心に物を詰め込むよりは心を鍛えたい。私が描くのは私、私自身が私の書物の材料、私は私の内を見詰める、私は私だけを相手にする、私は私を考察し検討し吟味する（モンテーニュ）。   
