この俺の枠の身体こそ西田幾太郎の言う歴史的身体である。
加速度的に上がり高まって行く。分析的思考は対立する二つの項を対立したままに固定するもの、理性はその対立を更なる統一へと齎すもの、へーゲルの弁証法特有の使い分け、カントやヤコービやフィヒテの哲学が分析的思考の哲学であり、自分の構想する哲学はそれらを最終的に克服する理性の哲学だとする誇負、啓蒙的理性に対しても今や自分の哲学の内に組み込むべき一つの思想的所産として受け止めている。信仰という言葉も絶対者としての神を信じる行為といった概括的抽象的な意味に用いられている。へーゲルはここではっきりとカントやヤコービやフィヒテの群集う世界、哲学史がドイツ観念論と名付ける世界に足を踏み入れている。様々な経験を経巡る意識は自他のうちに日常ごく普通に見掛ける意識、最も単純で卑近な感覚的確信から最も普遍的な絶対知へと上昇していく過程の分析が精神現象学の主題、その過程を一つの必然的な過程として描き出すことによって、へーゲルは日常意識にとっての学問の必然性を、同時に学問にとっての日常意識の必然性を論証しうると考えた。日常生活と学問が太い必然性の絆で結ばれ一つの統一的地平を形成しうること、精神現象学の最大の思想的課題であった。個人の位相から集団組織の位相にわたる位相の多様性、内奥の心理から歴史的行動に及ぶ問題圏の多様性、認識論から実践的道徳論を経て宗教論・国家論に及ぶ問題意識の多様性、原始古代から現代に至る歴史的観点の多様性、そしてそれらを弁証法論理に絡めとろうとする際の構成の雑駁さ、こうした『精神現象学』の特色は、へーゲルの思想的立場が必然的に要請するものだったといえる。へーゲルの見据えていた日常意識は広汎多彩なものであった。学問は自己意識の世界と学問とを統一し、自己意識の世界が学問に包摂されることを示すべきだ。潜在的な学問は外に出てきて顕在的になり、その過程は学問と自己意識が統一される過程である。こうした学問ないし知の生成過程を述べるのが精神現象学である。最初にくる知、素朴な精神は感覚的意識、本来の知に至って純粋な概念の世界である学問の場を獲得するまでには意識は長い道のりを苦労して歩む。学問が自然な日常意識の逆立ちとして現れること、若年のへーゲルが学問への反発という感情の内に強かに実感した事実であった。両者の関係の中から関係変革の論理を汲み取る、精神現象学の思想的立場、日常意識と学問の歴史性を問う立場、転倒として現れる必然性、学問は意識の歴史の必然的所産となる筈である。完全に明確な内容を備えたものは同時に顕教的で概念的で学習されて万人の所有物となることができる。学問の公共性の根拠、学問と日常意識の関係の根拠、同時に学問が自己意識の転倒として現れる根拠、へーゲルは自己超越性とでもいうべきものに見出していた。自分自身の自分の直接の在り方を超えていく。意識は自分の本当の姿を自覚しているから限定づきの存在を直接に超えていく。限定づきの存在は意識に属するものだから意識は自分自身を超えていく。精神現象学は、意識とその対象の発展を俯瞰する学問的な「我々にとって」という視点と、実際に経験を重ねていく当の「意識自身にとって」という二つの視点を持つ、意識が自分の本当の姿を自覚し自分の内発的な力によって自分を超えていくものだとすれば、我々は傍観者となってその発展を一つの流れとして整序するだけで足りる。日常意識は自己の自律的運動によって素朴な自己を超える学問を産出していく。学問と日常意識は意識の自己超越性をバネとして繋ぎ合わされる。転倒の理路を一つの必然的な過程として把握しきる。学問は思想的現実性を獲得する。へーゲルは歴史的にも対決しうる基盤を獲得していた。啓蒙思想が信仰者の意識に立ち向かうとき、啓蒙思想は相手の原理を借用している。信仰者自身のもとに無意識のうちに散らばっている思想が啓蒙思想の手で一纏めにされる。啓蒙思想は特定の要素のうちに全体を見通し、その要素と関連する対立要素を持ち出してきて、一方を他方へと転倒させることによって、二つの思想の概念の力を呼び覚ます。啓蒙思想が信仰の要素に含まれる別の面を表に引き出す。別物も信仰の本質をなし本当は信仰者の意識そのものの内にある。啓蒙思想は立ち現れてくる概念を目の前にする。純粋な洞察が実現するのは概念に関わる事柄、概念を本質とする純粋な洞察は、まず自分自身が絶対の他となり、自分を拒絶し（概念上の対立は絶対だから）、やがて、この他なる存在から自分自身へ自分の概念へと還ってくる。洞察が信仰に対して概念の力を行使しうるのも、洞察が信仰の意識の内にばらばらにある要素を結び付けるような運動であり、洞察が信仰に対して行使する力には絶対の正当性があるといえる。啓蒙思想は信仰者の自己意識である。啓蒙思想の正当性は詰まるところ信仰の正当性、啓蒙思想の暴力は信仰意識内部の矛盾が信仰意識にとって暴力として現れるものである。自己の内に自己否定を積極的に推進していくだけの思想的徹底性を有するか否かは、弁証法の体系を一つの運動過程として実現していく契機相互の優劣を決める上で決定的な意味を持つ。信仰意識と啓蒙思想との対立の中では、矛盾を推し進める力は圧倒的に啓蒙思想の側に秘められていた。啓蒙思想の信仰に対する勝利、絶えざる自己超越に生きる意識は啓蒙思想をまた超えていく。啓蒙思想は絶対知に至る一階梯、信仰の矛盾の顕在形態たる啓蒙思想の矛盾は更に高次の段階に向かって克服される。現実の世界及び現実の意識がそれを要求している。人間生活の内部が混沌とした時、哲学による統一が要求される。精神現象学は、その要求の歴史的必然性を論証するものだったといえる。啓蒙思想と信仰を現実の歴史の中に相対化し、それぞれに含まれる矛盾を絶対知に向かって克服したとき、へーゲルは啓蒙的理性を論理的にも歴史的にも克服しえた。啓蒙思想は時代によっても哲学によっても克服された。観念的克服、啓蒙思想は理念としての時代及び理念としての哲学によって克服されたということを、へーゲルはよく承知していた。克服の仕方も一つの歴史的必然、啓蒙思想は観念論的に克服され、自己超越を本質とする意識は絶対知といったところへ拉しさられる。精神現象学以前の青年へーゲルに還っていく。キリスト教の様々な形態、変容、精神に関する一切の判断を下すに当たって、その基礎になる根本命題が至る所で確定される、根本命題とは我々の宗教をも含めた全ての本物の宗教の目的と本質は人間の道徳性にある、と表現される。キリスト教の特殊な教理、それを広める手段、信ずる義務、恣意的に見える行動を遵守する義務、右の目的との結び付きに従って価値や神聖さが評価される。唯一道徳的動機、道徳法則への尊敬の念は、この法則を自らの立法の根拠とし、自己の内面から法則を生み出すような主体の内に生じてくる。理想像としての道徳宗教も、イエスという歴史上の人物の言行に肉化されて現れることが多かった。成年に達するまで自分自らの陶冶に時を過ごしたイエスは宗教と徳を道徳性にまで高め宗教性の本質をなす自由を再建しようと試みた。イエスの目的は道徳感覚を再び呼び覚ますこと、心情に働きかけることにあった。
