真の詩人はゲーテのように脱皮と転身によって更生する。
元よりヘッセは常に同一であるから『デミアン』とその後、即ち後期の作品にも前期の要素の多くのものが残っている。デミアンは前後両期の作風を兼ね備えていて興味がある。『デミアン』の初めの『郷愁』『車輪の下』と同じように少年時代の一挿話の素朴に単純に含蓄をもって描き、その以後、真の我を追求する点は後期の『シッダールタ』に、現代文明を痛烈に批判する点は『荒野の狼』に、魂の故郷である大いなる母を思慕する点は『知と愛』に、それぞれ通ずるところがある。心は孤独のうちに沈んでいた。彼の心は内を向き始め自我の探求に没頭した。自己追求の記録、真の自我を求めていく過程、すべての人間の生活は自己自身への道である。真に自己自身になることは最も容易なようで困難なことである。明暗二つの世界を出入していく。思春期の悩みは欲情をも肯定する悪魔をも包摂する神への憧れを強くする。彼は目覚めた人間にとっては自己を求め自分の真の運命を生きる義務を悟る。俗衆を越えた孤独に捉えられる。文明の内的荒廃と共に世界の大きな運命が近づいて来るのを予感し生まれようとするものが卵の殻を破るように今や世界が生まれ出るために崩壊しようとしているのを感ずる。大きな運命の意志を認識し古い世界の終りは新しい世界の始まりであることを悟り甘んじて運命に身を委ねる。結局自分の指導者は自分の似姿、自己導く者は即ち自己であることを感じる。『デミアン』は自己を求める人間の物語として、その出来事は殆ど全く心の中で演じられているといってよい。この書にこそ「内面への道」という題目が冠せられるに相応しい。「汝があるところの一切、汝が意志するところの一切、汝がしなければならぬところの一切は、自分自身から出発する」己に帰れ。自然に帰れ。
完全な或物であった。自由な意志はすべて欠いており一切の特徴が必然性を帯びている、一個の型典的なデカダン、一つの生理学的不都合が実践法及び手続として原理における革新として趣味の危機として結論また結論を引き出し歩一歩歩みを進めて行く論理。単語が至上のものになって文章から跳び出し文章はのさばって頁の意味を曖昧にし頁は全体を犠牲にして活気づく。あらゆるデカダンスの様式に対する比喩である、いつでもそれは原子の無政府状態、意志の分散、道徳的に言えば「個体の自由」、生命、同じ活気、命の躍動と過剰が最も小さい姿に押し詰められて了って残余のものは生命に乏しい。到る処に麻痺、労苦、硬直が見られるか、或いは敵意と混沌とが見られるのであって、いづれも高い形式の有機体に上って行くほど目立つものとなる。凡そ全体は寄せ集めで合算したもので人工的、一個の拵えものなのっある。最小の空間に無限の意味と甘美さを押し込める。

邦銀が世界の金融機関と競走していくスタートラインに立った。日米間の互恵主義の観点から今後は日本の金融市場でも米銀の活動について何らかの恩典を与えねばならず、加えてグローバル化する金融市場で日本でも銀行・證券一体となったコングロマリット化が推し進められる道へと突き進む事になる。現在の金融市場ではグローバル化と銀行・証券・更に保険をも包括した金融コングロマリット化が２大キーワードであり、そのインフラを逸早く整備する為「時間を買う」再編が今内外で展開されようとしている。バブル経済に奔走した日本経済は過剰に供給されたマネーが高騰する土地と株に流れ込んだ事で実体経済の規模を大きく上回る信用創造を行ってしまった。日本経済全体が土地と株を担保に借り入れを繰り返す事でレバレッジ梃子を利かせた一種のデリバティブのような状態であったともいえよう。
