ヘーゲルは哲学というものを超時代的な存立態としてよりも各時代精神の体現態として歴史的な一形象として観じていた。時代の興隆期よりも各歴史的段階の没落期に現れ、ミネルヴァの梟のように暮れなずむ黄昏を待って飛び立つ。或時代の没落期は新しい時代の胎動期、哲学は嵐に先駆けて飛ぶ海燕である。二元性の図式、主観と客観、普遍と特殊、有限と無限、自由と必然、等々多岐多様な形で定在する。この二元性を弁証法的に止揚して真の理念的統一を確立する。主観性と客観性とを包越する絶対的精神に定位して超克する。真理は全体、学知は体系的全体、哲学は絶対者の概念的認識であるという際、この絶対者はかの「神・人」の範式で理解さるべきであって、そこでは認識者たる人間が絶対知の高みにまで帰入している次第なのである。神のみが真理であるという最高の意味における真理を対象としている。真なるものは本性上その時が来れば否が応でも罷り通る。真なるものはその時が来た時にのみ現れ出る。真なるものは自力で登場するべく自分の内に力を備えている。哲学は、その発生、流布、繁栄、衰微、復興の歴史をもつ。教祖と祖述者の歴史、また論敵の歴史をもつ。哲学はその時代と全く同一、その時代の実体的なものの知、当の時代精神こそ哲学にとって既定の現世的内容である。精神は不断に進歩していく運動のうち、子供の場合、胎児として永らく静かに養われ続けた後それまで専ら量的に漸増してきた進行過程から質的飛躍、今や子供が生まれ出るのと類比的に精神は新たな形姿へと静かに緩やかに自己形成を遂げつつ熟成していき、暁天一閃、新世界の結構が一気に立ち現れる。真の学は自分自身に立ち返り収斂の生きた中心点を形成する。時と共に次第に見られるようになってきたありとあらゆる分離、生きた全体の個別的部分への分離を、哲学が総体性へと連れ戻し、哲学の範疇的本質を叙述し、普遍的教養のあらゆる部分を絶対者の内へ採り入れ、そしてあらゆる学問の真の再生への展望を哲学によって拓く。嘗ての偉容を再建する。哲学の生成と展開、唯一つの生動的な精神の思惟する本性は、既に対象となっている意識を越えて高まり自らの内において高次の段階になっている。一部は相異なる形成諸段階にある唯一つの哲学を提示し、一部は特殊的な諸原理は一個同一全体の諸分肢である。時代の上での最終の哲学は先行したあらゆる哲学の成果、ありとあらゆる哲学の諸原理一切を含んでいる。最終の哲学こそ最も展開された豊かで具体的なものである。世界の思想である以上、哲学は現実がその形成過程を完了し己を仕上げ終えた後の時点に初めて出現する。歴史もまた必然的に、現実が熟成したところで観念的なものが実在的なものに対向して現れ、この世界をその実体において把え、自分向けのものとして一つの知的な王国の姿に構築する。絶対者は、その現象である理性がそうであるのと同様、永遠に一個同一のものである以上、自己自身を目指し、自己を認識し終えた理性は、いずれも一つの真の哲学を産出し、その解決と同じく、あらゆる時代を通じて同一の課題を解いてきた。自己自身を認識する理性は自己自身とのみ関係をもち、その活動と同様その全成果も理性自身のうちにある。生というものは永遠に自己を対立措定的に形成するもの、必然的な分裂は生の一要因をなす。総体性は最高の分離からの再生という仕方によってのみ最高の生動性〔という在り方〕のうちに在ることが可能なのである。叡智界と実在界という既成化した存在を生成として把握し所産としてのそれらの存在を産出として把握する、生成と産出の無限の活動を通じて理性は分離されていたものを合一し絶対的分裂を相対的分裂とする。思弁的なものは諸対立をも自分の内に含む、このことによって自己を具体的な総体性として証示する。我々が人格的存在者より以上の所にまで達している。私にとって自我が全て、哲学は無制約者から出発する。無制約者は自我の内か非我の内か、私にとってあらゆる哲学の最高の原理は純粋な絶対的な自我だ。彼の絶対的自我はあらゆる実在性を含んでいる。私にとって私は無、それゆえ絶対的自我は私にとって無である。存在は主観と客観の結合を表す。主観と客観が端的に合一されている時、端的に存在ということが語られうる。知的直観の場合がそうであるように。いかにして自己意識は可能であろう。私が私を私自身に対置し、私を私自身から分割しながら、対立するものの内にある私を同一として認識することによってだ。判断は最高の最も厳密な意味において、知的直観において最も内的に合一されている客観と主観の根源的な分離、根源分割である。同一→根源的分割→高次の同一、という発展相で把える。人間の下位の欲求から始まった僕の学問的教養において、僕は学問へと駆り立てられざるをえなかった。そして青年時代の理想は反省へと、同時にまた体系へと転化せざるをえなかった。こういうことに従事しながら僕は今、自問している。人間の生の内へと食い込んでいくような、どのような還帰が見出されるかと。彼の壮大な体系の概要を形作る。かくあらば、狭き絆は我等を隔ち、胸の血潮ぞただ犠牲なる。我を汝へ、汝を我へと拡げんがため、我等を個別ならしむるもの、燃え尽きよ。命ただ、愛の内に愛を創る互の命なればなり。親和なる心に心を委ねてこそ胸の裡おのが力で開くものなれ。精神は自由なる山嶺に出で立ちて悉く我なるものを捨離したり。我は汝に我を観て生く。汝は我に汝を観て生く。かくてこそ天上の幸、我等が喜び。絶対的対立、真の無限性は規定されたものの絶対的自己内反照復帰である。規定されたものは自己自身の他者、このことのみが有限者は無限であり自己の存在において自己を止揚するという有限者の本性である。真の無限は自から自己自身に関係する自己規定、内在的な自己自身の規定性の定立である。真の無限者は、自己の他者のうちにおいて自己の許にある〔憑自〕ということに成り立つ。過程として言い表せば他者のうちにおいて自己自身に至る。無限性をなす全体は自から他者となると共に自己内に反照反省する。自己内で分割され区別されても区別を同時に止揚しつつ無限性は無限に絶対的に自己自身となるべき単純体である。根本原理は完全に超越論的、絶対者が現象そのものの内に自己を定立する。自由な思想が絶対者を思惟し絶対者の理念を把捉する。自由な思想が存在を把捉し、その存在を諸物の本質として認識し、すべてのものの絶対的な総体性と内在的な本質として把捉し、この存在を思想として把捉する、そこに哲学の本来の始まりがある。意思は信心帰依することにおいて自己の特殊的な利害は捨て去る。宗教では表象と感情の対象、芸術では直観の対象、哲学では思惟する精神の対象、哲学はその限りにおいて最も高い自由な英明な形態である。あらゆる特殊的な諸原理を自分の内に含むことが真の哲学原理、哲学の各部門はいずれも一つの哲学的全体、自己内で自から完結する円、個々の円は総体性を自己内に統括し、それは自己のエレメントの障壁を突き破って広い圏域を基礎づける。全体は各々が必然的な一モメントをなしているところの多くの円からなる一つの円として現れ、諸円に特有なエレメンテの体系が全体としての理念を形成する。
