またしても根無し浮き草人間、愛が欲しい安らいたい。
居ながらにして全世界中知り尽くせる、全体から部分ごとの相関関係まで。何とか自身で鍛え込み抜き上げ変質させ超自然的力で優れマトモになってくれるのを祈るだけだ。世界自分史上最も優れた個人単体枠として脳も全身体の全能力も最大限に極限界を突き抜け越え破って異常に高まる。丹田から全身隅々まで充実充溢充満している。脳の中枢から掘り出し起こし返す。宇宙の万有に普遍的に行き渡っている永遠の真理、破壊死滅した全脳細胞全身体細胞も流れ出し中心核、全脳細胞も全身体細胞も再生しされ完全回復活賦活性化、無限の成長因子からダイナミックな成長を遂げる。輝くばかりに無限の創出発現だ。少なくとも今枠だけは今終らせ終え終り、今枠ごと完全に終わらせ終え終わっている。俺の枠の中から内から内部から中枢から何もかも全部吐き出し広げ広がっている。般若心経、金剛般若心経、日本の仏教は殆どすべて大乗仏教に属し、大乗仏教の根本思想は空の理法を悟ること、日本では浄土教以外の殆どすべての宗派によって重んぜられ講説読誦されている。そのもの全体全面まで広がり続けた領域に16歳から軌跡道程という枠を加えた今の自己自分自身である。16歳の個人単体枠は金剛石ダイヤモンド、今枠も当時から当時以上である。16歳の脳の再生から完全回復賦活性化すれば無限の脳内神経伝達物質成長ホルモン分泌からダイナミックな成長を再び遂げられる。16歳から脳中枢から無限の成長ホルモン分泌から更なる成長にエンジンが懸かる。身体も全然矮卑小さいが問題は脳だ、嘗ては16歳で宇宙最高の頭脳だったんだ、16歳も今この枠であるならば、16歳から16歳以上の脳に身体に今完成っている。成長ホルモンも脳内物質も無限に分泌しさせされている。今枠ごと完成しさせされれば16歳から軌跡道程全時期全枠も含まるる。自己自分自身の生まれてから16歳から軌跡道程から若い時代から掘り出し起こし返し歴史である。読書万巻を破り筆を下ろせば神有るが如し、万巻の書を読み詩文を綴れば神霊が籠っているようだ。本も愛読書は慣れてみると血が心が通う。書物が本当に生き物のようになる。心から読む心読すると書物が生きてくる。慈悲の学問、信仰、願い、いわゆる悲願を養うべきである。独り独の心境で学ぶべきもの、「独」という字には非常に複雑深遠な意味がある。孤独、相対を突き詰め超越した絶対、更に突き詰めると人間も絶対の独になる。初めて独立・独参・独行となる。剣聖・宮本武蔵は独行道と言った。自分自身孤独に徹していくと独楽の境地が開ける。剣の名人であった。よほど人生の経験を積んで至極の境地に至っておる、なんともいえない大らかさ強さ逞しさ、淡宕、英雄・哲人の終わりには時折こういう境涯がある。最後の晩年の風格であります。天稟、人柄そのものが詩的、芸術的である。自然と人間とを調和させて活き活きと表現、人格がいかに渾厚重厚で透徹しているか。気、胸中より生じて宇宙に充塞す。筆、人間に落ち瓊玖を輝瑛す。大きく深呼吸し色々と道楽に殴り書きもやる。まるで天上の仙人が人間世界へ降りて来て、その文、その筆悉く珠玉だという。天地自然は中和、中は何処までも変化進歩、しかもその中に万物の調和がある。中和の天を断じとは自然の妙理を語ること、自由自在に興に応じ歳と共に自由自在に変化していく。楽易の友に同ず、道を楽しむ。自由な高邁な老境の自画自賛だ。「なにもない状態」原意、インド数学では零を意味する。物質的存在は互いに関係し合いつつ変化しているのであるから現象としてはあっても実体として主体として自性としては捉えるべきものがない。これを空という。物質的現象の中にあってこの空性を体得すれば根源的主体として生きられるともいう。この境地は空の人生観、即ち空観の究極である。すべての存在するものは根源的には空なるもの、実体がない（空）ということは相関的（縁起・相依性）ということ、不滅不生なる縁起、梵字の阿字はすべての語の根本、一切万有の根源、この根源的一者がそのまま森羅万象と現れ、根本も不生、万物も不生であるという。物質的存在を我々は現象として捉える、現象というものは無数の原因と条件によって刻々変化するもの、刻々変化しているからこそ存在として捉えられる。実体がないという混沌とした主客未分の世界を唯一の全一な一即一切一切即一なるものとして実感の上で掴む。現象はあらゆるものと関係し合うことによって初めて現象として成立し、現象を見据えることによって一切が原因と条件によって関係し合いつつ動いているという縁起の世界が体得出来る。私でない私に成りつつある、理論的に言えば一切のものは絶えず自己に対立し自己を否定するものによって限定されるという関係に立ち限定されることによって自己を肯定して行く働きを持っていることが理解される。物質的現象は色即是空空即是色と漢訳され生きた体験として実感の上で確実に掴まれた世界である。存在を混沌たる主客未分の一なる世界と掴むときは不減不増。実に偉大な不生のアートマン（我）である。不老不滅不死であり無畏でありブラフマン（梵）である。心を覆うものがない？人は意識の中に包まれて住する？尊ぶべき神聖な智慧の完成に礼し奉る。およそあらゆる相は皆これ虚妄なり。もし諸相は相に非ずと見るときは即ち如来を見る。聖者は絶対そのものによって顕されている。一切の賢聖は皆無為の法を以て、しかも差別有ればなり。現象として現れている存在（有為法）、現象の背後にある絶対的な無限定な存在の根源として無規定なるもの、無為は説一切有部など小乗仏教の教学においては存在＝法と考えられていたので玄奘は無為法と訳した。個を個体を自我を自己を離れ生きているものという個人という思いも御仏である世尊は一切の思いを遠く離れている。菩薩は正に一切の相を離れて。最上の完成者と言われる。あらゆる法は目覚めた人の法である。如来には肉眼が天眼が智慧の眼が法の眼が目覚めた人の仏眼が有る。端麗な身体を完成している。
