肉体から抜け出て行く魂、中心核である。
常に知りながら知識の対象を知りながら生まれてきて生涯を通じて知り続けている。生まれる前に知識を獲得し後にその知識の対象について感覚を用いながら以前に持っていたかの知識を再び把握するとするならば、学ぶことと呼んでいる事柄は元々自分のものであった知識を再把握すること、学習とは想起することである。魂は人間の形の中に入る前にも肉体から離れ存在し知力を持っていた。美や善やすべての実在が確かに存在するならば、嘗ては我々自身のものとしてあったことを再発見しながら感覚によって把握されるすべてのものをその実在に遡って関連付け相互の類似を確かめるならば、これらの実在が存在するように魂もまた生まれる以前にも存在した。実在が存在すること、魂も生まれる以前に存在することは同じ必然性のもとにあり。常に自己同一を保ち同じように有るものが非合成的（魂）？時によってその在り方を変えるものが合成的（肉体）？実在そのもの、『正にそれで有るところのもの』は単一の形相、常に同じように自己同一を保つ。変化をも時空間的にも全体ごと許容している。不可視のものは常に同一の有り方を保ち可視のものは変化し続ける？我々自身の一部分は肉体であり他の部分は魂である。肉体は感覚器官に惑わされ、魂が自分自身だけで考察する時には魂は彼方の世界へ純粋で永遠で不死で同じように有るものの方へと赴く。魂はそのようなものと親族、魂が純粋に自分自身だけになり亦なりうる場合には常にそのような永遠的なものと関わりながら恒常的な同一の在り方を保つ。魂はそういうものに触れる。魂のこの状態こそが知恵（フロネーシス）と呼ばれる。ソクラテス、貴方の言われることは全く美しく真実です。魂と肉体が同じ者の内にある時、自然は肉体には奴隷として奉仕し支配されることを命じ魂には支配し主人であることを命ずる。神的な魂は本来支配し導く本性のもの、肉体は支配され奉仕する本性のもの。神的で不死で可知的で単一の形相をもち不可分で常に同じように自分自身と同一な魂、人間的で可死的で多様な形をもち無思慮で分解可能で自分の一部である肉体、肉体は速やかに解体が相応しく魂は永遠の形相を保つ。真実に神々と共に過ごす。哲学は魂を解放しようと努力する。魂自身が魂自身の中へと凝集結するように激励する。仏陀にとっては、あらゆる衆生こそがその国土、そこに仏陀は耕し穢土転ぜしめようとする。心が浄らかなるによって土もまた浄し。そこには根底的に空の思想が流れていて空なる故に穢もまた浄に転換しうる。このつくられた世界は無常なるかな。清浄な眼をもつ者となった。執着からの解放、煩悩の流出（有漏）から心が解脱することを得た。広大な仏国土、すべての存在は（心によって）つくられ妄想された性質のものであることを知って正しく完成した無上の悟りに向かって発心した。阿羅漢であり完全な知の持ち主である如来、法は衆生の汚れを欲望の汚れを生まれ死ぬことを離れ自我より個我よりも時間的に前後の極限なく、寂静によって性格づけられ、あらゆる文字も言葉の絶えたもの、あらゆる思考の波と離れ語りえないもの、あらゆるものに遍満し虚空のよう、色彩も共通の性質も形態もあらゆる動きと離れている。表象することも心意とか識知とかを離れ、匹敵し相対する較べるべきもの対応する原因も縁もない。法界の中に集約されるから、あらゆる法は等しく置かれる。それは真如の後に従うもの、絶対に不動で真実の極限にまで到達する。（法は）空性の中に集約され無相をもって露わにされ無願の性質のあるもの、眼や耳や鼻や舌や身体や心の及ぶ範囲を超えている。如来が完全な涅槃に入る。一切衆が完全な涅槃に入る。菩提とはあらゆる相が寂滅したこと、あらゆる分別と動きや思いや心の動揺のすべての囚われと離れ無執着にある。菩提は法界を住処として住し如性に順じて知る。菩提は真実の極限（実際）に住すること、不二、虚空に等しく平等、無為（流れ移ろい行く有為に対し）、処と非処とを離れ無動、本性として清浄であり光り輝くものとして本質的に浄らか、差異や違いも多様性も超越し、あらゆる存在の平等なことを理解する。虚空のような性質、あらゆる場所に偏在する。正しく法を祭る。法（施）の祭りとは、はじめおわりなく衆生を成熟させるもの、菩提の姿をもって優れた大慈が現に成り立つこと、優れた法とみなされ大悲が現に成り立つこと、すべての人の喜びを大悲が成り立つものとして大喜が現に成り立つこと、知恵に属するものとして大捨が現に成り立つ。寂静と調練とによって布施パーラミターが現に成り立ち、破戒の者を成熟させるものとして戒パーラミターが現に成り立ち、諸法の無我であることを見て忍パーラミターが現に成り立ち、悟りに向かう精進パーラミターが現に成り立ち、心身共に離脱することによって禅定パーラミターが現に成り立ち、一切知者（仏陀）の知によって知恵パーラミターが現にパーラミターが成り立っている。法会とは、あらゆる衆生を成熟させるものとして空性が現に学習され、有為を浄化するものとして無相が現に学習され、思い通りに生として無願が現に学習されている。正しい法を保持することにより現に力強い規律が成り立っていること、摂事により現に寿命が全うされ、核心のないところに核心を認めることにより現に身体も生命も財産も獲得され、六種を念じることにより、現に正念が成立しており、喜ばれるべき法により現に素直な意欲ある者となり、正しく努力することにより現に浄らかな生活が展開し、信と喜びとに仕えることにより、現に聖者への奉仕が成立しており、出家することにより現に深い決意が成立し、仏陀の知を得ることにより現に樹下に座禅する者となり、あらゆる人々を煩悩から解脱させる行により、現にヨーガ行の階位が成立している。知恵という資材も成立し、あらゆる煩悩、あらゆる障害、あらゆる邪悪を断つことにより一切の善根という資材も現に成立している。一切知という仏の知を理解し、善により悟りへの適切な手段が現にすべて生起し成立している。真に最上の祭りを行った者、神々によっても世間の人々によっても供養されるべき者となる。
