体外まで広げ広がり続けた領域も個人単体枠に帰し帰り回収しさせされるんだ、16歳も軌跡道程も個人単体枠であるなら、あらゆる全部の失敗の後悔も最終的到達点への最終的完成形への運命だ。全脳細胞が全能力を絞り搾り取り出し使い切り尽くし果たし疲れ切っているのも字のため？ハロペリドール等の抗精神薬でドーパミン受容体を遮断されたため？脳内ネットワークも完全に繋がった、これから16歳の嘗ての宇宙最高の頭脳になる。豪快で慎重で大胆で繊細で傲慢で謙虚で華麗にして力強く優しい方だ。区別の時代は過ぎ去った。体系がそれを克服した。我こそは先行のものにとっても後続のものにとっても一切であらねばならぬ、途方もない努力だ。それぞれの学問的な問題が、学問という広い領域の内部で定められた己の場所を占めており、それぞれの目標と限界とを有するものであること、それは全体の画面の中にそれぞれの仕方で融け込むべきもの、全体の交響楽への参加はそれぞれの持ち場において許される。感激の或いは憂愁の熱情によって学者をして気品あらしめる所以の念願の敬虔さを意味し、それはまた学者をして全体のための奉仕者たらしめる所以の、個々の研究のいずれにとってもその存立に関わることである。天才は自己を内部に向けることによって自由を発見する。彼にとっては自由が彼の至福である。行為するところに我々の真の自己がある。行為は私と汝の世界から起る。弁証法的に自己自身を限定する世界の構造を立ち入って全局面と重層とにわたって究明する。私の考の根本的形式を明にし、これによって種々なる問題に対する私の考を綜合統一しようと努めた。「弁証法的一般者としての世界」この論文には実際に西田哲学最終形態の包括的基本構図が展開されており、西田の最重要論文の一つといえる。世界という根本語は、主題を表し根本的には立場の言明である。世界を考える我々も世界の内にある。世界を考えるということも世界の内での出来事として世界から考えられる。自己が世界の内に真に入っている、世界が立場になり、世界構造が実在の論理として開示され、その開示が具体的思惟である。論理的構造が究明された世界を直接に世界を生きる日常の経験に再びおさめて経験の事柄として自覚し直そうとするところに「論理と生命」という問題への動機がある。論理的に弁証法的一般者といわれた我々の世界は、日常の経験からすると「我々がそこから生れ、それに於て働き、そこへ死にゆく」世界である。働くということと生死ということが重なり合い浸透し合うところである。西田の歴史的実在の世界は、生活世界において日常であると共に、生死界の底なき深みを湛えている世界である。我々の最も平凡な日常の生活が何であるかを最も深く掴むことに依って最も深い哲学が生れる。西田が行為的直観と歴史的身体を考えた世界を生きる直接のところが論文「論理と生命」の事柄である。論理と生命、悲連続の連続、論理の生命的運動にして生命の論理的運動を表す。具体的論理の形式の成立を歴史的生命の運動（歴史的形成作用）に即して理解する立場を開いた。「人間的存在」「歴史的世界に於ての個物の立場」「絶対矛盾的自己同一」「経験科学」は、西田にとって「論理と生命」及びそれに続く論文、即ち同じ方向で問題域を拡大しつつ具体的に補完して行った「実践と対象認識、歴史的世界に於ての立場」と「種の生成発展の問題」を経た上で問題別に思索されたことを人間存在に約して改めて緊密に連関づけたものが「人間的存在」、それだけに集約の力を込めたこの論文は、独立の人間存在論としての意義にとどまらず、以後西田最後期への諸論文へと再び広範囲に拡大してゆく包括的跳躍力となったものということが出来る。最後期の諸論文は人間存在の諸領域と哲学の問題領域の殆ど全般にわたっている。私は海を愛する、何か無限なものが動いているように思うのである。洋々深々たる無限感は晩年の西田の世界の哲学に響きを与えている。西田の海の如き世界は同時に歴史的実在の世界である。あまりに都らしく山川の美もまた優美にすぎる京都に比して、鎌倉はなお廃墟らしい所が多く、迷路の如き鎌倉山の谷々には人間の罪悪の歴史が集められている如き感がある。しかしそれだけにまた深刻に人世の悲哀を感ずることも多く、我々の宗教心を動かし易い。歴史を包んで、天地の分れし時ゆよどみなく揺らぐ海原は悠久の響を落ち葉ふみ行く西田に伝えている。西田には絶えず湧き出す思想の泉のような面があった。自分が新に甦る思いがした。西田と西田を師とする弟子たちの一つの自由な学問体ともいうべきものの創造的な力を思う。西田を巡る群像としての存在は近代日本において独自の一精神山脈をなしている。漱石と木曜会に集う弟子たち、折口信夫とその弟子たちがそれぞれ独特の山脈をなしているように。欧米の思想世界が西田の思想に触れた時、西田が西欧の思想に触れた時、出会いの未だ原初的な問題の切実さのうちで、ギリシャ思想とキリスト教と近代科学を包括した西田哲学の全重量に出会ったように、出会いは西欧哲学の全骨格を以てするような、哲学の最も基本的問題から始め直すような、対話乃至対決になり得る。そのような回路を通って西田哲学の生命が問題として今後始めて生きられることはあり得る。真の個物とは自己自身を否定することによって肯定するという意味を有つ。それは働くもの、社会的歴史的実在が我々を包み我々の底から我々を限定するものとするならば、社会的歴史的限定の主体と考えられるものは絶対に相反するものの自己同一、我々の人格的自己と考えられるものこそ真の個物といえる。行為するものは人格的意義を有つ。個物が一般であり主語が述語であるという弁証法的論理が主語面即述語面として絶対に相反するものの自己同一というものから考えられるとするならば、弁証法的論理というものは社会的歴史的存在としての我々の行為的自己の立場からのみ考えられ、すべて客観的知識と考えられるものは行為的自己の立場から考えられる。個物的なるものを限定する真の具体的一般者の限定即ち弁証法的一般者の限定だというものの意味が明となり、それが真に客観的論理であるといえる。世界は自己同一的に自己自身を限定する、それが我々に直観的と考えられるものである。世界が世界自身を自己同一的に直観的に限定することが形成作用、我々の行為はかかる意味において形成作用の意味を有つ。世界はそれ自身の重心を有ち、円の中に円を限定し行く、世界は動力学的なると共に静力学的であると考えられる。無限に弁証法的に自己自身を限定する世界は一面に何処までも個物的限定、円環的限定として一面に何処までも一般的なる世界を有つ。
