俺の枠の中で内で内部で16歳丹田から生まれ始まり広がり16歳からやり直す。
俺の枠で16歳から始めるんだ。この個人単体枠でさえ宇宙を体現している。16歳ではあれほど絶対圧倒超人的な脳力パワーだったのに今これ程疲労疲弊し続けているのは字に使い切り尽し果しているからだ、字の実現の為、字の為だ。枠ごと宇宙に投げ出し出され放逐放擲された。そのもの全体全面まで俺だけれど枠でさえ超現実的絶対圧倒超人的存在だ。枠でさえ現実を飛び出し超越している。一語がすべてを語る。良くも悪しくも「私が生命の書だ」といって神の前に出すものをお書きなさい。思想の発展はなお山を登るが如し。私の場所の論理を媒介として仏教思想と科学的近代精神との結合ということは私の最も念願とする最終の目的とする所で御座います。真なるものこそ真の力である。午後独り在宅、静思。静に半日を過す。復活、悪夢より目覚めて。いかなる腐木にも新しい生命の芽がふく。心身の軽きを覚ゆ。全く一私人となって唯吾思想の発展に従事。色々苦労を重ねながら堅忍不抜、人生の深い大きな苦労を象徴している。古人も道を求むる者は放身捨命。自分で力を尽し自分で考える。基督キリスト我にあって生く、懸崖に手を撤して絶後に蘇生するという所に宇宙の大真理あり。真に深き哲学に入るには純知識の方の外に宗教とか芸術とかの体験も必要かと存じ候。真に人生を知る者、哲学が生きた力になる、大自然の懐に抱かれて、何卒万事を放擲して心静かに御静養遊ばれ度、全然馬鹿になった気で山海の間に放浪せらるるがよろしと存じ候。海の波浪は無限の動きのよう、大きな海のうねりには万事泡沫の如し。宗教の事は最も深き所はスピノザ的の所にあるがこれをヘーゲル的の考と真に内より一致する所に真理はあるならん、実に白刃上を歩む如きもの。過去があるから未来もある。人間というものは時の上にある。過去というものがあって私というものがある。過去が現存しているという事がまたその人の未来を構成している。この頃時々若い時分に読んだ漢文の書など取出して読む。そして果しなく過去の追憶に耽ることがある。今は心の底に深い孤独と一種の悲哀すら感ずる。歳月如流水、流れの源を辿り遡って行く、16歳も軌跡道程ごと今中心核枠である。自分の生命のあらん限り何処までも向上発展し自己自身にあるものを何処までも進めて行きたい。歴史的存在としての人間的存在というものが自己矛盾的存在であり、当為というものも私というものが歴史的世界の個として創造的世界の創造的要素としてここにあるということから起る。主客の対立というものも何処が対立点となるかは歴史的に定まって来る。抽象的には何処でもなるように考えられるがそんな立場からは唯抽象的な当為だけ、歴史的現実が個性的に否定を含んでいる。そこから道徳的行為というものも考えられる。歴史的現実の世界とは日常性的世界、そこから真の具体的世界が考えられる。日常性的世界とは極めて膚浅と考えられる世界であると共に実はそこに絶対に触れる最も深い世界である。我々は今後深く歴史的実在そのものを分析して新しい実在の範疇を以て実在を考え行く。自然を歴史において見る。自己というものがこの世界の中にあり、これと共に動くものとしてそこから認識論も倫理学も考えられる。個人を生かし包んで行くのが新しい歴史の方向、東洋も日本精神も理論を有たねばならぬ。今日世界の一員としての日本は大に日本文化を世界的に発展させる、それは日本文化を合理化すること、そこに我国の使命と存在がある。我々はまだ深く学びもし自己に還って深く研究もして見る。禅というものは真に現実把握を生命とする、何とかして哲学と結合したい。矛盾的自己同一として既に歴史的世界構成の論理。自ら空想の世界に入る。価値転換の価値転換、絶対否定の絶対肯定まで行く。浄土宗の世界は煩悩無尽の衆生ありて仏の誓願あり、仏の誓願ありて衆生ある世界と思っておる。場所の自己限定は我々の個に対し偉大なる仏の表現、切なる救の呼声、場所論理にては内在的即超越的なものからその自己表現として仏の御名というものが出てくる。ブラフマンとは、バラモン教では元々は神々に対する讃歌を意味する。祭祀において諸神万物を支配する神秘的な「祈りの力」とされ、ウパニシャッド哲学に移行するに至って宇宙の永久不変の根本原理とされた。全ての存在と活動の背後にある究極で不変の原理、純粋な存在と「意識そのもの」(世界の魂)とされた。元々ブラフマンは人間の感覚・知性・想像を超えたものである。それがウパニシャッドの時代になると、その概念が擬人化され神格化し、ヒンズー教に至って男性神としてのブラフマーが誕生した。ブラフマーは三最高神の一人で世界の創造と次の破壊の後の再創造を司る。仏教においてブラフマーは「梵天」とされた。仏陀が悟りを開いたとき、その悟りを万民に説得したのが梵天、その有様を「梵天勧請」と呼ぶ。
