16歳丹田から生まれ始まり広がる今中心核全枠、そのもの全体全面まで俺だ。
恐ろしく超優れた知的な遊び人だ、素晴らしい。広げ広がり続けた領域から知識の再確認、既に出来て決まっている道を通り体験する。普遍概念から出発しながら、あれ程大きな光を投げられた生命の現象に対する一層特殊な記載に専念するようになると、指導観念から創造から観念という仮説に到達し、それが有機化の眞の原因だというようになった。同じ傾向、同じ進歩が、哲学者であろうと科学者であろうと生命の本性を深く究めるすべての人に見られる。生命の科学が発展すればする程それらは自然の内部に思考を取り戻す必要を感ずるようになることは予言してもいい。有機化が精神の覚醒のようなものだとすれば、物質は精神の睡眠と見る。物質が『自然的な実在の基礎、自然の秩序という連続的な進行によってすべてのものが段階から段階へ、界から界へ移って結局精神という統一に帰する』とすれば、逆に我々は最初に精神の弛緩、物質性を構成する空間時間内の緩慢があると考える。無限な思考は、その存在の充満の一部分を削って、そこから一種の覚醒及び復活により実在するすべてのものを引き出す。我々の観点から自然の事物を考察する際、そこに我々が見出す最も著しいものは美である。且つこの美は自然が無機物から有機物へ、植物から動物へ、動物から人間へ上るにつれて一層深められて行く。そこで自然の仕事が強度になればなる程生産される作品は一層美しくなる。即ち美が我々にその秘密を明かすとすれば我々は自然の仕事の内奥に進み入ることができよう。我々が美はそれ自身結果であると考え原因に遡るならば美はその秘密を明かすであろう。美は形に属しているが、すべての形はそれを描く運動に起源を持ち形に記載された運動である。美しい形を描く運動とは意に適う運動だと知る。美は固定させられた適意であるとレオナルドダヴィンチが云った。宇宙を芸術家の眼で静観する人には、美を通して適意が読み取られ、適意の下から善意が透いて見える。すべての物はその形が記す運動の中に自分を投げ出す原理の無限な寛容を示している。人が運動に見る愛らしさと神の善意の特徴になっている寛大、適意という言葉の二つの意味は一つになる。半神に対する崇拝は、最強でありながら最善であることを欲して悩んでいる人間を助ける時に力を揮う人々に向って、ギリシャが献げた感謝の崇拝である。古代人の宗教は憐みの心に対する敬意となる。その宗教はすべてよりも上に、すべての起源に寛容と気位と最も高い意味に於ける愛を於いたのである。宇宙は気前と思いやりと愛によって自分を投出す原理の示現だと云っている。偉大な哲学が人間の思想の黎明に於て現れ、歴史の転変を通じて維持されて来たと説いた。半神的な哲学、気位の高い寛容な人々の哲学である。この哲学は優秀な悟性によって思惟される以前に、選ばれた人々の心胸によって体験された。この哲学はあらゆる時代に於て全世界の人のために生まれ、根源的な衝動を忠実に守り、宇宙の基調になっている寛容と愛の調子に諧って響く眞の王者というべき精神の哲学であった。これを初めて修めたのはギリシャが崇拝した半神であった。その後これを教えたのはタレスからソクラテス、ソクラテスからプラトン及びアリストテレス、アリストテレスからデカルト及びライプニッツと続いて、唯一つの大きな系統を成している思想家であった。これらの人々がすべてクリスト教を予感し若しくは展開しつつ思惟し実行した哲学は、悉く一つの心持に収まる。そうしてこの心持はデカルトが寛容という美しい名を以て呼んだものである。あらゆる時代の大哲学者の中に再び見出した。それらに新しい精神を吹込み、眞の探求に於ては感情に、又美の創造に於ては感激に、一層大きくこれを発揮した。最も高い芸術、生命の芸術、精神を完成させる芸術を強調した。この芸術を聖アウグスチヌスの教えに要約して『愛を持て。汝らの欲する事を行え』と述べた。哲学の歴史が殊に我々に示すのは、反省が難問を和らげ矛盾を解き増大する近似によって事象を測定しようとする絶えず新たな努力である。時偶に芸術家もしくは詩人の心のような自己の起源に近く止まっている心が現れて、胸に感ずる調和の中に幾つかの限界を融和させることによって、正にその単純さからこれらの複雑な問題を屈伏させるように見える。
