個々の部分ごとに深く勉強してきた哲学も体系的に理解する、昔も思い出す。
自己疎外とは元来はヘーゲルの用語、自己が自己の内から生み出されたものによって否定されること、フォイエルバッハは神は人間の自己疎外であると捉え、マルクスは資本主義下の労働は労働者の自己疎外であると考えた。実存の性質、自己と自己との関係（キルケゴール）、自己と自己とはあまりにも熱心に対話する（ニーチェ）、人間の実存の様態を現存在と命名したハイデッガー、即自存在（客体）と対自存在（主体）という言葉に換言したサルトル、キルケゴールはそれまでの哲学の総決算といわれ客観的真理の真髄といわれたヘーゲル哲学を「ヘーゲルは壮大な大伽藍（客観的真理）を建て彼自身（実存）はその傍らの掘建て小屋に住んでいる」と評した。これこそ実存哲学の特徴が最も良く表された言葉である。キリスト教における歴史時間には始まりと終わり目的あり、神による天地創造と最後の救済という終着点を設け、一つの歴史を成立させたことを意味する。このような人間の存在の仕方が今まで無限に繰り返され今後とも未来永劫に続くであろう。ニーチェは無始無終の時間の中に佇む人生の無意味さを永劫回帰（永遠回帰）といった。永劫回帰の立場に立てば今まで意味を持ち得たもの、価値あるもの全てからその意味や価値が剥奪され生成の事実だけが残ってしまう。神は死んだ、そのような状態で人間はどう生きるか。超人とは従来の人間の在り方を超えようとする人間「これが人生だったのか。よし！それならばもう一度！」永劫回帰に生きる自分の運命を肯定し愛せる（運命愛）、理想や彼岸といった従来のキリスト教的道徳観が虚妄と感じられ始めた19世紀末のデカダンスとニヒリズムの状況にあって、これらを克服する生き方であった。ヤスパースは人間が認識する部分に対する全体を超越者と表現した。全体から部分へ説明する、そのような観点で捉えられた人間の実存の仕方をハイデッガーは世界内存在と名づけた。日常から脱却し自己を見つめ直す、真の自己の在り方を極めることに没頭する、ハイデッガーの非日常性、本来的実存、現存在が何事かを為し生きていることが終着点へ向かっていること、今ここで自分の人生に対する態度を決することこそ本来の自己であること実存していることの証明、自己というものが初めて自覚される。実存は本質に先立つ（サルトル）、自分自身で本質や価値を創り出す。実存は孤独、人間は自由の刑に処せられている、人間は自ら造るところのもの、人間は選択し決断し投企する。自分の可能な在り方を未来に投げ掛け、それに向かって自らを作り上げていく。人間とは投企である。人間はまず先に実存し世界内で出会われ世界内に姿を現し、その後で定義される。自ら造ったところのものになる。自ら考え望むところのもの、実存して後に自ら考えるところのもの、実存への飛躍の後に自ら望むところのもの、サルトルのアンガージュマン、自分が行動する原則として全人類の人々を念頭におき全人類の原則としても妥当であるような行動をとるべきことを主張した。サルトルの全人類の原則「私は自分自身に対し、また万人に対して責任を負い、私の選ぶ人間像をつくり上げる。私を選ぶことによって私は人間を選ぶ」という。中世においては天動説がキリスト教義に適う。ガリレイは宗教裁判にかけられ地動説を撤回させられたが、それでも地球は動くといった。この言葉は真理は厳然として存在し普遍的絶対的なものであることを意味する結果。自然は我々の知性にとっては限りなく驚嘆すべきことを最高度の容易さと単純さとで行っている。コペルニクスの地動説は、2000年にわたるアリストテレス的宇宙観を打破すると共にキリスト教的宇宙観世界観を逆転させ思想史において革命的役割を果たした。ケプラーの惑星の軌道法則は地動説を数理的に確認、ニュートンの万有引力説の根拠となり太陽系の構造究明に寄与。その功績は天体の円運動という伝統的真理を打ち破った点にある。ブルーノは地動説と共に宇宙のすべては神の現れであるとする汎神論を主張。自然観とは哲学における対象（自然）の問題を意味した。ベーコンやロックをはじめとする経験論は、人間の感覚に依存する仮説・実験・観察に基づき検証されたものだけを真理と見なした。デカルトによれば自然は思惟実体と延長実体の二つから成る。自然が自力で運動する、自然の物質の中に生命力や魂があって運動を起こさせているという考え「物活論」ギリシアの自然哲学に特徴的な考えであった。ベルグソンの哲学は直観的で一種の経験主義的、実在を流動的に見て純粋持続ということを説く。この純粋持続に緊張と弛緩とある。純粋持続というのはベルグソン哲学の根底をなす考え方、真の実在は緊張した純粋持続、流れる時、空間的世界はその弛緩したものと考える。道徳の世界は固まった閉じた社会と考え、真実在は純粋持続の世界として何処までも流動して進んでいる、創造的進化は閉じた社会を壊して進んで行こうとする、そこに宗教が出て来るというような考え方である。ベルグソンの形而上学の立場から宗教と道徳を見た。ベルグソンは主観から出発し創造を説く。マルキシズムの哲学などは唯客観からのみ考えようとし一方に偏する。主観即客観客観即主観の一如の創造が現代の哲学の中心問題であるといえる。世界を精神から見て行くか物質から見て行くか、ベルグソンの純粋持続は精神的な見方を深く突き進んで行ったもの、私は精神と物質、主観と客観が一つのところに真の実在の意味があると考える。精神と物質と一つの立場は歴史的立場といえる。真の実在すなわち歴史的世界の発展として精神とか物質とかいうものが考えられる。ベルグソンの哲学は精神の方面に偏している。ベルグソンの哲学が現代の哲学に、また広く欧州思想界や文芸界に及ぼした影響は大きいものがあろう。ベルグソンは近世のラショラリズムの傾向に対して直観主義をとり、自然科学的実在観に対して精神的なものを実在と考え、空間的なものを実在と考える考え方に対して時間的なものを考えた。ベルグソンの哲学はロマンティック傾向が濃いといえる。偉大な天才は皆各自に新しい途を切り開いて進んで行く。新たな抽象的思想を定義することは非常に困難なものである。我々が学問的に物を考える時、何らかの立場に立っている。伝来の形式によって伝来のように物を見る時、それは最も分り易い。偉大なる思想家とは、かかる物の見方、考え方の創立者である。先に進むには立場を棄てる。これまでの立場を包んでそれを特殊なる一つの立場と見る物の見方、考え方が要求せられる。例えばアインシュタインの相対性原理というものもそういう意味を有ったものであろう。我々は全く立場を変え新しい物の見方、考え方を生み出す。
