全分野を軌跡道程を包括する者だ。
全身全器官機能が最大に高まり治る。肝臓も治った。今日大学入試センター試験か、センター試験満点取って東大一番主首席で入学卒業して・・か。あの時16歳で夜空を見上げＩＱ６００！！東大首席！！なんて思っていた頃も今だ。16歳でクラシックＣＤなんて探し聞き捲っていた頃も今だ。日本には日本の壁がある、日本独特の文化や風土、気候、それに日本語の壁、日本人独特の感性がある。また寝て起きたら今日今この瞬間にも16歳に16歳以上に遥かに大きく高く強く逞しく美しく深く遠く重く熱く熱く冷たく激しく賢く知的に優れ一気一挙一度に変質変貌変身変容していること！！ソクラテスには唯一つの問が残っている、人間とは何か。ソクラテスは常に客観絶対普遍的真理の理想を支持し擁護している。彼の知っている唯一の宇宙、あらゆる彼の探求の対象となるのは人間という宇宙である。彼の哲学は厳密に人間学的である。俗にいう建前と本音、自己の内部に一般意識と個別意識の葛藤を常に孕む政治的人間、政治一般の孕む一般意識と個別意識の緊張関係が更に行為の実質にまで及ぶところに絶対的自由の悲劇性が潜んでいた。行為を普遍性へと高める、状況の中でその行為が有する思想性に即く。どんなに高邁な思想も行為の実質からすれば卑小な行為となってあらわれうる、また逆に、どんな卑小な行為にも本源的な思想が含まれうるとすれば、行為の普遍性は状況の内部における行為と思想の全体性の内に探る。へーゲルのいう絶対的自由の意識は、行為を行為そのものとして絶対化しようとするものであった。それは自分の意思が一般意思であることを求めるのと全く同じように、自分の行為が普遍的行為であることを追求する意識であった。政治の場に浸りきった意識が、それ自らの政治行為をも絶対化するのは自然な成り行きだといえる。政治が現実世界での実践的な営みである以上、政治思想の正当性・真理性を巡る争いは直ちに行為の正当性・真理性を巡る争いへと発展する傾向を持つ。今、世界の中に無数の点としてばらばらに存在する各個人が、こうした政治意識をそれぞれに持つものと仮定すれば、自己を思想的にも実践的にも絶対化する争いは、いわば点を線で結び合わせようとする秩序化の動きに対する反撃と、自分以外の点を叩き潰そうとする血腥い殺戮戦の二つを生み出すことになる。自分の存在を実感する。空虚の自由、万人の平等とか万人の宗教生活、実現されれば何らかの秩序、制度や個人の特殊化が齎される、だからこの自由が実現しようと考えていることは、それ自身既に単なる抽象的構成、実際に実現されるのは狂暴な破壊行為である。旧制度への積年の恨みと、それを解体しうるという感激が、破壊行為に必要以上の拍車をかけ、思想の未熟が行為の過激を招いたこともあっただろう。革命や内乱や戦争など、秩序の大幅な改変を要求する激動の時代には、幾度となく狂暴な破壊行為が歴史行為の表面に浮かび上がり、いつしかまた歴史の暗闇に沈み込むといった過程が繰り返されてきた。その時々に或いは人間の悪魔性に或いは大衆の過激性に或いは群集心理の盲目性に或いは・・その原因も多岐にわたって説明されてきた。旧秩序に対する自由の理念の優位性を認容するへーゲル、フランス革命における狂信的破壊行為の原因を主張された自由の理念に専ら求める。自由と平等は、憲法と根本規定と最終目的及び結果を集約する単純なカテゴリーとして、しばしば引き合いに出される。この規定の欠陥は自由と平等が抽象的だという点にある。国家と共に支配権力と被支配者、当局、官庁、上役、等々の違いが生じてくる。ここでは平等の原理の批判に重点が置かれているが、特殊性を秩序化を嫌う絶対的自由の原理にも同じ批判がそのまま当て嵌る。表向きへーゲルは、近代国家が個人の自由を最大限に許容しつつ国家の実体的統一へと集約していくものだ、と語っている。個人の自由が許されるのは国家より市民社会内部、普遍性の実現の場たる国家の次元では個人は国家意思に全面的に従うべきものとされていた。法、共同体、国家だけが自由の積極的現実態であり自由を満たす。個人の願望のように制限を受けるような自由は特殊な要求に基づく恣意なのだ。国家、法律、共同体の絶対的な枠組を突き破る根を、個人の自由・平等の理念は有している筈で、その危険性の認識が国家内部での個人の自由・平等の排斥へとへーゲルを導いた。フランス革命に続く恐怖政治の時代は、絶対的自由の理念が国家の次元に登場するとき、どのような地獄絵図が展開するかを実見させてくれるものとへーゲルには見えた。個人が点として存在する空虚な場で、それぞれの人間が自己の絶対性を思想的にも実践的にも主張しようとするとき、一方で秩序破壊の狂信が他方で死に至るテロルの嵐が吹き荒ぶ、というのが革命後の自由の帰趨に関するへーゲルの解釈、暗鬱な色調に塗りつぶされた描写だった。絶対の自由が現実の社会組織を解体し終え、自由をはっきりと確立したとなると、この自由が唯一の対象となる。己の個としての至純かつ自由な自己を知ることがすべてであるような対象である。
