彼にとっては刹那的な今という永遠があるだけだ。
彼には無限の落ち着きが感じられる。16歳も軌跡道程も枠で包み込むんだ。過去も未来も全部の時期あらゆる頃あらゆる時の枠が全部の枠が全枠が集まり合わさり集中集合総結集した今枠、人生の総計総決算だ、総決起だ。自己意識は枠を捨てる。一流のものはすべて自己原因である。何か他のものから由来したということは抗議、価値に疑いをかけることと見なされる。すべての最上位の価値は一流のものである。すべての最高の概念、存在者、無制約者、善、真、完全など、自己原因である。かくて彼らは彼らの驚くべき概念「神」を持つことになる。最後のもの、最も稀薄なもの、最も空虚なものが、最初のものとして原因それ自身として最も実在的なものとして置かれる。以前には、変化や変遷や生成一般は、仮象性の証明と考えられていた、今日ではその反対に統一や同一性や持続や実体や原因や物性や存在やを措定するように理性の偏見が我らを強いている限り丁度その限りに於て我らは謂わば誤謬に巻き込まれ強いられているのだと我らは見る。言葉というものは、その発生から言って心理学の最も未発達な形式の時期に属するものである。言葉の形而上学、平たく言えば理性の有する諸根本前提を我らが意識に上せる場合、我らは一つの粗野な呪物崇拝的なものの中に這入り込んで行く、こいつは到る処に所業者と所業を見る、こいつが原因一般として意志を信ずる。こいつが自我を存在としての実体としての自我を信ずる、そして自我という実体に対する信仰をすべての物に投影する、かくて始めて「物」という概念を創り出す。到る処に存在が原因として考え入れられる、潜り込ませられる。自我という観念から派生的なものとして始めて存在という概念が生ずる。意志が働きを及ぼす或るもの？意志が一つの能力？意志は言葉である。賢者、敬虔なる者、有徳なる者には到達できる眞の世界、彼はその中に生きて居る、彼がそれである。我プラトンが真理である。約束されている眞の世界。考えられただけで既に一つの慰めであり義務であり命令である眞の世界。あらゆる情熱には、それが単に致命的で愚さの重みでその犠牲者を引きずり降すだけの一時期がある、それから又、情熱が精神と結婚し、自己を精神化するような後年の時期、ずっとずっと後の時期がある。感性の精神化は愛と呼ばれる、これはキリスト教に対する一つの大きな勝利である。今一つの勝利は我等が敵意を精神化することである。敵意の精神化は、敵を持つことが如何なる価値を持つかを深く解することに在る。政治の方でも今日敵意は一層精神的になっている、遥かに賢明で思慮深く寛大になっている。殊に新しい創造、新しい国などは味方以上に敵を必要とする。対立して始めてそれは自分を必然のものと感じ必然のものとなる。内部の敵に対してとる我らの態度も同じ、ここでも我らは敵意を精神化し価値を解した。対立に富んでいるという代償を払ってのみ人は実を結ぶものとなる。あらゆる物に新しい味を覚え時を待つ快癒者の静かに成る気持といったもの、あるいは我らの主な情熱の強烈な満足に続く状態、稀な飽和の快感。不確実のために長い間緊張し苦しめられた挙げ句、恐ろしい確信が立現れてくること。あるいは行動、創造、作用、意欲の直中に於ける円熟と練達の表現、静かな呼吸、達せられた意志の自由、偶像の薄明、魂の平和。私は或る原理を方式化して置く。道徳に於けるすべての自然主義、即ちすべて健全な道徳は或る生命の本能に支配されている。何らかの人生の戒律は「すべし」及び「すべからず」という一定の規範で実現せられ、人生途上の何らかの阻害や敵対は、これで取り除かれる。神のお気に召す聖者は理想的な宦官である。神の国が始まるところで生は終る。知覚された世界は私の表象である。この世で認識生活を行うすべての存在にとって、このことは真理である。そして人間だけがこの言葉を内省的な抽象意識の中に持ち込むことができる。人間がそうできたとき哲学的な思索がその人間の中で始まったのである。明確になるのは、太陽を見る眼、大地を感じ取る手、周囲を取り巻く世界が専ら表象としてのみ存在するということ、その人自身との関係においてのみ存在しているということ、その真理は時間、空間、因果性などのような考え得る一切の経験形式よりも普遍的な形式を語っている。実際それ以外の経験形式、つまり時間、空間、因果性などはすべて、この形式を前提にしている。太陽や地球も大地も眼も知覚内容、私の表象。
