時間は心の傷を癒すより抉る。やはり、外人の書いた物は本人との間に訳された距離がある。日本人なら本人と直接繋がれる。言語力さえ有ればダイレクトに繋がれるのに・・
全体の効果はこれを生成する諸原因の大きさと方向に完全に依存する結果である。精神科学と自然科学の内容は同一、共に力と大きさと方向から成立しているので、最終の結果は両者とも同じ方法で生成されるといえる。同じ必然性の鉄の輪が我々の物理的生活と文化的生活を共に包んでいる。人間生活の複雑な歯車の噛み合わせのうちで、我々は思考と意志の全機構を動かす衝動を見出し分類し体系化する。人間性の統一と同質性を証明する。ニーチェは力への意志を公言し、フロイトは性的本能を強調し、マルクスは経済的本能を王座におく。形而上学、神学、数学および生物学は、人間の問題に関する思想の指導性を次々に握っており、その研究方向を決定した。問題が極めて重要なことは認識と探究のあらゆる異なった分野において依然として感じられていた。神学者、科学者、政治学者、社会学者、生物学者、心理学者、民俗学者、経済学者は、すべて自己の見地から問題を探求した。これら個々の分野における様相と展望を結合し統一することは困難であった。個人的因子がますます有力となり個々の著者の気質が決定的な役割を演ずる傾向を示した。人間の研究に従事する特殊科学は、ますます多様性を示し漠然とした。心理学、民俗学、人類学および歴史学は、驚くほど豊富で常に増大の一途を辿っている山なす事実を集積した。観察および実験の装置は限りなく改善され我々の分析はますます鋭利となり深刻となった。生気論の果敢な闘士、生命の自律性の原理の支持者ユクスキュル、生命は終局的な自己自身に依存する現実である。実在は限りなく多様、生命の異なった種類の数と同数の異なった形態と種類をもつ。各生物はいわばモナド的存在である。それは自身の経験を持つ故に自身の世界を持っている。ユクスキュルは甚だ天才的にして独創的な生物学的世界の型式を発展させる。彼の主張によると、動物的生命を明らかにする唯一の鍵は比較解剖学の事実のうちに与えられる。動物の身体の構造、種々の感覚器官の数、性質、および配置ならびに神経系統の条件についての注意深い研究は、我々に生物の内部および外部の世界についての完全なイメージを与える。ユクスキュルは最も下等の生物の研究から彼の研究を始め、それを次第に、あらゆる形態の有機的生命に拡張した。生命は至る所で完全であり最も小さい生体の場合も最も大きい生体の場合と同様である。どんな有機体も漠然とした意味で環境に全く順応し適合している。生物学的種が外界の刺戟を受け入れる感受系および反応系は、すべての場合に密接に絡み合い、動物の機能的円環として記述されている同一連鎖をなしている。人間世界においては人間的生命の独特の性質を示す新しい特徴が見出される。人間の機能的円環は量的に拡大され質的変化をも受けてきている。人間は自己を環境に適応させる新たな方法を発見した。新たな機能の獲得は人間の全生命を変形させる。人間は新次元の実在中に生きている。人間は物理的宇宙にも住みシンボルの宇宙に住んでいる。言語、神話、芸術および宗教は、シンボル宇宙の部分をなす。シンボルの網を織る様々な糸、人間経験の縺れた糸、あらゆる人間の思想および経験の進歩は、この網を洗煉し強化する。人間は常に自分自身と語り合っている。彼は想像的な情動のうちに希望と恐怖に幻想と幻滅に空想と夢に生きている。人間を驚かすのは物についての人間の意見と想像である。合理性はまさに、あらゆる人間活動のうちに含まれている性質である。神話も体系的概念的形態を持っている。言語は理性または理性の源泉と同一視されてきた。それは部分を全体となすこと、我々に全体の代りに部分を示す。概念的言語と並んで情動的言語、論理的または科学的言語と並んで詩的想像言語がある。一次的には言語は感情および愛情を表現する。人間の文化生活の豊富にして多様な形態、あらゆるこれらの形態はシンボル的形態、人間を理性的動物と定義する代りにシンボルの動物、象徴的動物と定義したい。人間の特殊の差異を指示でき、人間の前途に拓かれている新たな道、文明への道を了解しうる。哀切極りない内奥の声が響く。哲学には論理的能力も詩人的想像力が必要である。十六歳の一年間は心身共に壮な人生の最も良き時であった。多少書を読み思索にも耽った。測り知れない深い大きいものがあり、非常に厳格なようで、その奥に何処かまた非常に暖いもののある人であった。麗らかなりし青春の日の思出も今は半ば忘れられた古き物語の如く懐かしかりし当時の友も既に鬼籍に入った者が多い。寝転んで詩や小説を読むのが楽しみであった。感傷的な心を傷つけられた。自由に自分の好む勉強ができるので内に自ら楽むものがあった。超然として自ら矜持する所のものを有っていた。黙々として日々図書室に入り独りで書を読み独りで考えていた。思い出るままに彼の若かりし日のことなど話して見たい。彼の頭は実に旺盛であった。彼はよく書を読み記憶していた。その上判断が明晰精確かつ妥当であった。人には難しい書物も彼には容易に読めた。その教養深き高雅なる人格が自ら周囲を薫す、尊さを思い出す。雲中の竜が遂にその全身を露わす。若年にして既に超世間的で深く人生問題について考えていた。君は一見羅漢の如く人間離れしているが、しかも非常に情に細やかな所がある。無頓着のようであるが、しかも事に忠実で綿密である。君は学才の豊かな洞察に富む。行雲流水の趣を存している。高い山が雲の上へ頭を出しているような人である。そしてそこから世間を眺めている、自分自身をも眺めている。そのいう所が時に奇抜なように聞えることがあっても、それは君の自然から流れ出る。その考える所が、あまりに冷静と思われることがあっても、その底には深い人間愛の涙を湛えている。一見、寒山子をも思わしめる如き君の風貌の内には、碧潭水清うして、千状万態の世相、細やかに映す。繊細な感覚を有った人、時が独尊者の痕跡であるというのは面白い。人間が自然で自然が人間である。生死脱得？生死を超越するんだ。独り人間は値段以上である。学問も事業も究竟の目的は人情のためにする。名利を思うて煩悶絶間なき心の上に一杓の冷水を浴びせかけられたような心持がして、一種の涼味を感ずると共に、心の奥より秋の日のような清く温き光が照して、凡ての人の上に純潔なる愛を感ずることが出来た。運命は外からも内からも働く。過失の背後には不可思議の力が支配しているようである。後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。我々はかかる場合において深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依する時、後悔の念は転じて懺悔の念となり、心は重荷を卸した如く自ら救い、また死者に詫びることができる。無限の新生命に接する。
