王者の風格、全体全面たる自分自身を自我自信で固め固まる。
この俺の枠に最高から最低まで最上位から最下位まで優劣美醜強弱高低大小同居する。あー、彼女欲しい死ぬほど欲しい死ぬより欲しい・・言葉・字＝意思・意志・心・精神＝世界＝体（身体）である。あの榊一平が杉野あやにグッと入れた時に「あー、とろけそうた、最高だぁ・・《グッグッグッグッ》うおー！締まるー！すげー！！」カルシウムお菓子ビタミンサラダカルシウムを食べ過ぎて頭蓋骨を締め付けた夜も同じ事を思っていた。どうしてもこの、和田と大浦とやり捲っている羨ましい光景と、ケンタッキー・フライドチキン女子店員他に変な内容を書いた紙を見られ超大幻滅されたのがイメージされ眼前に浮んで来る・・字に意識が行くとすれば当時実地状況は分かれる。後悔すべき汚く恥ずかしい過去は書き換えてくれ。意識が急激に喪われていくときの甘美な体験だけは今でも鮮かに覚えている。眼前一杯に明るい五色のイメージが奔流のように溢れ、体は全ての重量を失って浮揚した。自分の肉体が一つの考察対象になりうるということを会得した。考察は試行錯誤の連続であった。美しい珠は不気味な沈黙を守って何時でも其処にある。時に閃光を発して生々しく屈曲する傷痕（肉）を見せたり、透明な無限（霊）を垣間見せたりする。精神と身体、心と精神を極度に偏愛した時代、身体の豊かで広々した地平が拓かれ始めた。意識もしくは情緒は対象を変形する目的のために自分を変形する。人間は現実の閉塞状態に追い込まれたとき、情緒の発動に導かれて自己と現実世界とを変貌させる。この場合、自己と事物との関係は決定的な過程や因果によってよりは魔術によって規制されている。我々の喜怒哀楽の生活は、自己の実存的生命体を無限に変換させていく動因であり、同時に眼前に繰り拡げられる世界を様々にデフォルメしていく羅針盤である。エモーションの深淵に降って行くに連れて、自己と世界との諸関係を律するデモーニッシュな異次元の世界に目を開かれていく。生きるとは本質的に魔術を生きることである。仏教では二十八部衆といって、精霊や鬼や悪霊および虫や鳥などを神義論的に擬人化した一群の諸が知られている。彼等は千手観音の眷族従者といわれ、仏法を守護する半獣半神であるが、つまりは精霊崇拝を背景にもつところの仏教的デモロジーの代表選手たちである。一般に二十八部衆は八部衆に要約され、密教図像学は彼等の彫刻的な姿態を克明に描き出し、デモーニッシュな尊像の一類へと再創造した。天は無限空間に浮遊する魑魅魍魎を象徴する。神話や伝承の世界においては、多くの謎に包まれている宇宙の仕組や現実世界の構成は、これらの危険な存在を予想して初めて解くことの出来るからくりになっている。想像上の魑魅魍魎は危険な悪霊から安定した守護霊への転換を強いられ、悪霊と守護霊が常に互換関係にある二元世界こそは、人間世界における意識と無意識、狂気と正気、異常と正常の互換関係に最も適合的に対応する世界なのである。それは一面で恐怖と法悦とのアンビバレンツな関係を示す局面、同時に原型と変型という二項によって示される可逆的な変身の心霊現象ということができる。変型によって原型を、その逆の関係を意識できる心性こそは、恐らく文化というものの最良の部分に根差した機制の一つなのである。文武両道に優れ、体も大きく逞しく、詩の才能もあり、大らかな人柄も好かれて・・結局今年も一人独りきり・・誰とも関係を築くどころか第一歩を踏み出す事さえ無理・・あーあ。存在条件から脱出し解放されて、動物や神が大暴れする遥かなる地平の彼方へと飛翔する。嘗てゲーテは、生物界における無限の多様性の根拠を推論して、原植物の考えに到達した。現実の植物の多様性は、この原型がたえず変型（メタモルフォーゼ）した結果であるとして、独自の原型―変型論（モルフォロギー）を展開した。やがてこの妄想を放棄して、原植物の考えが結局は一つの理念であることを自覚するに至った。我々の経験的世界の様々な分野において見られるような多様性の現象を、一度その原型や粗型に還元してみようとする願望は、いつの時代においても繰り返し表明されてきたものである。現実の現象世界は猥雑で無秩序なカオス、我々が観念の上でこのカオスを理念的なコスモスとして捉えることができるのは、そのカオスの背面に、それを統一する強力な実在すなわち「原型」を予想しているからなのである。我々が現に生きているのはメタモルフォーゼの中においてである。しかし我々を真に支え生かしているものは、抽象的なる原型＝実在である。このような原型―変型論は、最も抽象的な水準においては、キリスト教における三位一体説や仏教における三身論において見られる。キリスト教にいう三位一体説とは、神なる一つの本質と、父なる神・子なる神・聖霊の三つの位格（ペルソナ）との関係についての数理論をいう。ラテン語のペルソナは、我々の経験世界における個的人格の概念や位格を意味する。父・子・聖霊の三つのペルソナが神なる本質すなわち唯一神であるというのは、神なる本質の作用面を担っているからである。一本質三位格の三位一体説に非神話化を施すとき、原型―変型論の枠組の中にそれを位置付ける。三位一体の教理が、歴史的にはユダヤ教の一神論と異教の多神論とを媒介する中道であったといわれているのも、そこにメタモルフォーゼとしての多神に対して原型としての一神の優位性を証明しようとする意図が働いていたからであったと思われる。いわばペルソナなる概念は、このような概念を成立させる上で極めて重要な神義論的呪具の役割を果たしたといえる。仏教にいう三身論は、法身・報身・応身の三身をめぐる数理論的本尊論を指していう。大乗仏教では、宇宙の本性を真如・法性であると考える。それは一切の存在をそのようにあらしめているところの本質のことをいうが、同時に、ありのままの実相（現実の様態）それ自体であるともいう。この本質・実相は、原理的には現象世界においては隠され、現象世界を透明な意識で眺めるときは、現象世界そのものが実相として宇宙の本質として顕れる。このような意味における法性もしくは真如を、まず第一にロゴスの水準で表現したのが法身、次いで現象世界を救済すべく誓願を発してあらわれたのが報身、そして最後に現実の救済仏として歴史的人格を具えて現れたのが応身＝変化身である。ヒンドゥー教などでは、唯一神が動物や半神や人間に分出し変化して、それぞれが救済の働きをなすとする独特のアバターラ説（化身説話）が考え出された。大乗仏教における三身論も、このようなインド思想の土壌の中で育まれたといえるが、他方で、マックス・ウェーバーのように、この三身論をキリスト教の三位一体説とのアナロジーのもとに考察しようとする立場も可能であろう。彼は、法・報・応の三身を、超自然的存在としての「仏陀」の三種の現象形態すなわち救済仏の位格であるとし、とりわけ第二の報身は万有に浸透する霊気身であり、聖霊に対応するものだといっている。
