生物はすべてこれに生命を吹き込むことによって自分がこれを生物たらしめ、地の育むものも海の養うものも空中に棲むものも天にある聖なる星も皆然りである。太陽を太陽たらしめているのも自分ならば大きな天を天たらしめているのも自分なのであって、自分が宇宙の秩序をつくり自分がこれに規則正しい運行を与えている。自分はそれらより尊いもの、それらは生成するもの、自分は常住存在している。宇宙の全体と各個に生命を補給する賄い法、大宇宙に宿る精神を眺める。迷わせている欺瞞から解脱しさえすれば宇宙の精神を眺めるだけの資格を持つ、静観寂滅の法をもって。八方から静止せる天体の中へ精神が流れ注ぎ入り込んで中を照らすが如き有様を考える。あたかも暗雲を日光が照らして金色の様相を与えて光り輝かすように、精神もまた天の体躯の内に入って生命を与え不死を与え天を眠りから呼び起した。天は精神の思慮ある導きによって永遠の運動をさせられ幸福な生活体となった。天に尊厳が加わったのは精神が宿ってから、精神が来る前までは屍体、単なる土と水、素材だけの暗黒、非存在、神々の悪みたまう
ところ。どのような仕方で天を包括し自分の意志に従って導いて行くか、天はどれほど広大であるにしても大きさの全体に対して精神は自己自身を与えた為に大小何れの間隔を取っても皆既に精神の生気を帯びるに至っている。万物が生きているのは一全体としての精神によって、即ち精神は一全体としてあらゆるところに現在する。その遍在性と一体性において精神は生みの父たる知性に似ている。天も多なるものであって、それぞれ異るところに異る部分をもち精神の力によって一体を成している。この世界はこの精神の故に神となっている。太陽も精神を持つが故に神として現在し、その他の星辰もまた然りである。かくて精神は神々が神々であることの原因、それは神々よりも優先的なもの、精神もこれと同種類、余計な附加物を取り除いて完全に純粋なそれを捉えて君はそこに同じ尊いもの、本来の精神、凡そ肉体的物体的なもののすべてに優る価値を持つ。精神は知性から出ているが故に知性的、推理計算のうちに神のもつ知性が発揮されるのであって、その完成もまたもう一度知性から仰ぐ。知性は父親の如きもの、自分の生んだ息子が自分自身に比べて未だ不完全であるから養育するようなもの。精神の存在基礎も知性から来ている、その言論的表現も現実の活動は精神が知性を見ることによって営まれる。視線を内面の知性に向ける時その内面から精神は直知の対象となるものを自家固有のものとして得来って活動を営む。かくて知性は、いやが上にも精神をますます神の如きものたらしめ、知性が精神に助力する。一方は形相、他はこれを受容する素材の如き関係にある。知性は精神よりも更に優れたもの。真実在性の多い世界へと昇って行って、すべてが直知の対象となって存在しているのを視る。自己の意識と生命とをもつ永遠の存在があるのを視る。先頭に知性が立つ、はかるべからざる智慧が立っている。真実のクロノス、即ち豊満と知性の神なるクロノス、治下の生活である。この豊満神は一切の不死なるものを自己自身の内に含み、知性のすべて、神のすべて、精神のすべてがその内に含まれて永遠に静止している。満足すべき状態、一切を自己のところに所有している者、既にこの上なく完全な状態、知性神のところにある一切のものも完全である。浄福も何もかも永遠のうち、真の永遠なのである。時間はその模像、精神の周辺を馳け巡って去るものを送り来るものを迎えている。知性は直ちにそのすべてを知る。かくて知性は同じところに静止したままの万物を自己自身の内に把持している。そしてただひとえにあるだけなのである。すべてはその場にいつも静止している。自己のそのような有様に満足するかのように、すべてが同じままにある。知性神は、その多様豊富な存在を精神の上に重ね、精神は結びつけられて間に存在している。精神と知性が一体になった状態において、何者がこの神を生んだのか、多様神に先立つ単一者は誰か、この神の存在と多様性の原因となっているのは何なのか、何者がこの数を生ぜしめるのか。現実に作用している視覚のように、直知は見る働きが現に見ている場合、一者は両者なのである。彼のものの周囲に円光、太陽の周囲に馳せむぐる輝かしい日光、その光が生まれ出ている。存在するものは総じて、それが存在する限りにおいて、それのあるがままの存在から、それの周囲に、それの外に向って、それに依存するところの存在を、それが現にもっている能力から、必然的に成立させるものなのであるが、そこに成立せしめられる存在は、それを出生させたものを原型とする一つの影像なのである。既に成熟完全の域にあるものは、すべて生むのであってみれば、常住完全の状態にあるものは、常住永遠に生むはずである。彼のものの後に続く最大者は即ち知性、知性は一切に優越せる。精神の如きも知性の言論的表現、現実に営む作用の如きもの、知性は彼のものの言論的表現であり現実の作用であるのと同様である。生まれたものは生んだものを慕い敬愛する、愛情から両者が一緒になっていることは必然、区別されているのは両者が異っているということだけによる。知性は彼のものの肖像、生まれたものは何らかの意味において彼のものの一部、彼のものの多くの特徴を保有し彼のものに対しては日光の太陽に対するが如き同類性を持つ。一なるものは万物を生むことの可能な力として存する。力によって生み出される事物については、知性の直知作用が力から自己を引き裂くことによって事物を直視する。自分自身の側からも知性は力の自覚の如きものを既に持っている。自分自身で存在を生むことが出来るという自覚、その有様を彼のものから受けた力によって自分のために限定することが出来るという自覚である。その存在は、彼のものの所有にかかる事物の一部分の如きもの、それは彼のものから出て彼のものによって強化され存在への完成も彼のものを出発点とし彼のものから与えられるということの感得である。知性が直接に見るのは生や直知などの万物、それを知性は彼のものから出た自己自身によって見る、自分は既に部分に分かたれているが如きもの、万物が彼のものから出て来ることになるのは彼のものが絶対単純な一者である事情に基づき、知性のすべてが彼のものから出ている。存在するものは既に限界と立場で固められ、直知されるもののために立場スタシスを固めるのは定義限界づけと形容、これによってまたそれは存立ヒュポスタシスを得ることにもなる。知性は純粋なものに属し第一の始元から生じる、一度生ずる時は既に自分自身と共に存在のすべてを生む。美しいイデア界の全体と知性的な神々の全部を生む。そして自分の生んだこれらのものどもによって充され、丁度またもう一度これらを自己の腹中に呑み込んだかたちになっている。ゼウスの前クロノスは大変賢い神様で、自分の生んだものをもう一度自分の腹中に入れて持っていた、知性の充実し豊満たる所以なのである。知性は精神を生む、その場合の知性は知性として成熟完成の究極にある。大いなる可能の力は必ず生むものをもつ。生まれるものは生むものの影像、無限定で生むものが始めて限界を与え形相化する。
