神と語る言葉には神の力が宿る。
自我自信で全世界中に唯一人独り！！霊操者の意志が、神のより大いなる栄光を求め、絶えず更新し躍動する。罪の考察と観想、生涯の神秘的出来事、受難、復活と昇天、祈りが加わる。霊的な旅は浄化、照明、一致の三つの道を通る。霊操は常に敵との戦いである。霊操を授ける人は、均衡のとれた秤の針のように真中に立って、創造主が被造物に直接に働きかけ被造物が創造主に直接に働きかけるようにする。神と霊操を受ける人が深く交わり抱擁し合う。愛の交わりの極致「抱擁」神は自分に身を捧げた霊操者を抱擁し、神的な至高の幸福へ導き入れる。拘りから執着から囚われ捉われ捕らわれから解放しされる。先ず神聖な威厳に満ちた方の前に立ち、その方の無限な裁量権限にすべてを委ね、自分の意志の望みを秩序づけることを願い、愛情の動きをも神から変えてもらうことを願い、それに従って行く決意を保つ。霊操者の方から内心を打ち明ける。霊操を始める人が第一に目指すべきことは自己に打ち勝つこと、霊操は神と敵（悪の根源）の戦いを前提とし、霊操を受ける人が戦いの戦場であり当事者である。神は「同行二人」して、霊操を受ける人と共に働かれているから、霊操を受ける人は自分に打ち勝ち戦いに勝利する。霊操者が第二に目指すべきことは、根源と礎の秩序づけに基づいて愛着を正し生活を正す。人間は創造されつつある。それは、主なる神を讃美し敬い仕えるため、それによって自分の魂を救う為である。地上の他のものが創られつつあるのも人間のためであり、人間が創られた目的を達成する上で、それらのものが人間を助けるためである。人間には神の創造のダイナミックな活きが宿っている。この活きによって人間には生きる力と生き方・方向性が刻まれている。この生き方・方向性を表現したものが根源と礎である。創造されつつあるとは、人間が神の創造の活きに今も生かされていることを指す。神の創造の活きに招き入れられ、ダイナミックな神の創造の活きを体験した。人間の存在は究極目的を指向するダイナミズム（力動性）そのものである。このダイナミズムは恵みであり使命でもある。神が人間に恵みと使命を与えたのは、人間を限りなく愛しているからである。人間の身心全体を貫くダイナミズムは、創造の内容豊かな一つの愛の根源的志向性である。人間と同様に、地上のすべての物にも、神の創造の活きによってダイナミックな目的が与えられている。それは人間が究極目的（より大いなる神の栄光のために）を達成するように助けるという目的である。地上のものは「神を賛美し敬い仕える」という究極目的の達成の為の助け手であり協力者である。身心に深く巣喰っている執着を除き去り、身心全体を不偏にする。不偏は竜樹の『中論』の空に似ている。この点で病気－健康、貧－富、不名誉－名誉、短命－長生の二元相対を脱却し、不偏にすることは、禅の「無」と似ている。人間全体の躍動の現れ、具体的選択で一心に神の栄光だけを追求する霊性の徹底性を示す。完徳に達した人は、常なる観想と知性の照らしによって、我々の主なる神が本性と現存と全能によって一つ一つの被造物のうちに内在されることをより深く省察し黙想し観想する。霊操は、その全体を眺め、本質的に神との対話のドラマなのである。このドラマを生き生きとした活劇にするために、三能力（記憶力・理性・意志）、つまり人間の主要な能力の総力を活用する必要がある。重要な役目を果たすのが、創造的な想像力、記憶力。罪が体に閉じ込められている様を眺め、罪の現実をまざまざと生き返らせようとする。創造的な記憶力を使いながら、罪の歴史を思い起こす。天使の罪、人祖アダムの罪、先人たちの罪、そして自分の個人史の中での罪を想起する。これらを想起すると同時に、理性を使って自分の犯した罪と比較し、意志・感情に訴えかけて、深く恥じ慚愧の念に駆られる。罪の秘義的象徴（アナゴリカル）である「十字架につけられたキリスト」の姿を眼前に想像しながら主と対話する。十字架こそ、全人類を救済しようと決意した神の愛の生き生きとした象徴である。罪人とはこの愛に背いた者である。十字架の前に立つとき罪の本質が露になる。霊操がこの時点に達するとき、無意識の深層が打ち破られ人間の全身心が披かれ、密かに語りかけて来る「あの方」の無言の言葉に耳を傾ける。神の人類救済の意志は、人類を暗闇から解放し、「真理・生命・自由」に満ちた神的宇宙的共同体を形成しつつある。闇が光の輝きを照らし出す背景であるように、罪の歴史は、神の救いの活きの光輝く歴史を浮彫りにする。私の意向と行いと活動のすべてがひたすら純粋に「神聖な威厳に満ちた方」への奉仕と讃美だけに向けられるよう主なる神に恩寵を願う。創造主に背いた罪の重大さと邪悪さを記憶力を使って思い起こし、神の限りない慈しみに背いて罪を犯し、当然の報いとして永遠に罰せられたことを知性を働かせて思い巡らし、意志を働かせて感動を呼び起こして終わる。私は何者であるのかを省察する。禅では坐禅によって自己に沈潜し自己の根底が無であることを悟る。ここでは先ず全人類と比べ次に天国のすべての天使と聖人と比較し更に全被造物と神との比較の中に自分を置いて「私独り、どうして存在しうるのだろうか」を深思する。神の全知と枠の無知、神の全能と枠の無能さ、神の正義と枠の不義、神の限りない慈しみと枠の邪悪さ、神は誰であるかを洞察する。反芻とは、これまでの霊操で観想したことを思い起こしつつ、知性でこれらの事柄を思い巡らすことである。地獄の本質は神の愛の喪失にある。睡眠に充分休息した心身は純化され神の純粋な活きを受容するために最適な時期である。神の活きは人間全体（身と心の統一体）に与えられ、身も神の活きのダイナミズムに動かされ超自然的志向性に貫かれている。イエスの全生涯はその細部に至るまで徹頭徹尾呼びかけである。天と地のすべての権能を与えられている永遠の王なるキリスト、御自身も労苦を共にする決意を示される。場所を見ながら現場に身を置く。想像力は、記憶していたイメージを再び形成する能力よりは、文学者の創造的想像力のように、物事を生き生きと描写し、物事に実在感を与え、感情に希望を与え人間たろうとする決意に逞しさを与え、肉体的生命に緊張と活力を齎す能力である。霊操者は「根源と礎」の霊操によって、創造主の「活き」に活性化され、すべての現世的な事物に対して不偏となり、すべてを「より大いなる神の栄光」に向け変える根源的志向性によって動かされるようになった。この志向性は神の命の息吹、すなわち霊（ルアハ）によって人間に与えられたダイナミズム、人間の全能力、理性・意志・想像力・記憶力・五官をも、智慧の次元にまで高め、神的なものをも直観できるものにする。活性化された想像力が、キリストの神秘的出来事を生き生きと描写し、他の諸能力の協力のもとに、キリストの神秘的出来事の隠れた意味を見出し、キリストの呼びかけを聞き、それに応じてキリストの国に全身心を捧げ尽くそうと決意する。切に望んでいる恩寵を、熱意を傾けて聖なる御意志を果たすよう、主に恩寵を願う。
