今日中にこの個体枠を終わっている。
個から個体枠から離れ個を個体枠を捨て去り俺、そのもの全体全面まで俺こそが自分自身である。払い捨てる、我執を去り無差別・平等、自我一如の意をさす。没我無心、身を捨てる。16歳で恐ろしく輝くばかりに若く優れ充実していた頃も今、16歳で恐ろしく輝くばかりに若く優れ充実していた枠も今中心核枠だ。全部の時期あらゆる頃あらゆる時の枠が今中心核枠に一気一挙一時に会する。個体枠は完全に分解体しされて中心核に収容される。分解体しされた個体枠、そのもの全体全面まで俺こそ自分自身だ。自分であるという意識も枠から吐き出し切り尽くし果たしてしまうんだ。中心核に成れれば剣の超達人天才、剣豪にだってなれる。君はまことに豪傑なり。実に剣刃上の一句を悟る人なり。絶世超倫の士となって氷稜上に向って行き剣刃上を走る。身を捨て去った勇気、透徹した心構え、大死一番の覚悟だ。最早個体枠も完全身丸ごと中心核にある。個体枠よりも全体全面まで俺こそが自分自身、自分であるという意識も個体枠よりも中心核に全体全面まで俺にこそある。やけに背伸びして殊更身体を大きく見せようとする。今16歳である。個体枠ごと常に中心核に一つの全体である。枠の胸の中身は中心核に、枠は中心核にある。16歳も軌跡道程も全部の時期あらゆる頃あらゆる時の枠も嘗ての自分は今の自分の一部なんだ、枠から俺に、個体から全体全面まで広げ広がり続けた領域になったんだから合一出来る筈だ。この個体の中身も外枠も何もかも全部中心核にある。何もかも全部出し切り尽くしてしまう。個を個体を枠を吐き出す。俺の枠の頭脳精神肉体も機能面美観面共に究極完全完璧なる至上至高の理想的完成形と成る。壮大なスケールの構想と、それを実現出来るだけの圧倒的なパワーは男性だけが持つ。君子の行は靜以て身を修め、儉以て徳を養ふ。本当の科学は哲学にも宗教にも相通じ、説明の便宜上、知識とか技術とか区切り限界はない、無限、どこから始まっても何処で終っても良い。身体の機能は実に微妙な相関関係にあり部分部分が無限に連関している。道の世界、真理の世界でも同じこと、孔子を論じようとすれば老子も釈迦もみな関連して来る。枝葉末節になるほど内的統一を失って雑駁になる、自己の喪失・人間性の喪失、失われた自己を取戻し内的世界・精神の世界に還る。先づ失われた自己を回復する。何万年、何千年来漸くここまで発達させて来た精神生活・心霊の世界を今一度回復する。ここ数百年来、分析というものが一つの原理になって科学が発達して来た、あらゆる分析の中で一番発達した高等な分析は、人間が自分自身を省み解明する分析である、優れた科学者の一致した見解であります。学問・知識を肉体化する、身につける、所謂体現・体得、知行合一である。人間は絶えざる錬磨により本能直観的になって来る。其の習・知と輿に長じ。肉体の動作活動でも修練を加えて初めて医学的に所謂全解剖学的体系の統一活動が出来る。無限の進歩向上を欲する精神的機能が発して敬の心、より高き貴きものを求める心が敬。一々の細かい物象を捉える科学、大本の学は根本の教えであるから宗教。修養すれば直ぐ態度に現れる。顔面皮膚は身体のどの部分よりも鋭敏で体内のあらゆる機能が集中しておる。従って体内の状態が悉く顔面に現れる。すべてが顔色に現れる。大きな実行力を持つ。本当の智は物を分別すると同時に総合統一してゆく。末梢化すれば常に根本に還る。円、仏教では大円鏡智、分別智は同時に円通。聖賢の千言萬語、只是人放てる心を將って、之を約めて反復身に入れ來らしめ、自ら能く尋ねて向上し去り、下学して上達せんことを欲するなり。聖賢のあらゆる教は要するに、外へ放り出してしまって外物に支配されている心を掴んで要約して抜けてしまった心を自分というものに反らしめ自分でよく反省し追求して向上してゆく。自分は低きについて学んで上達してゆく。人間の三つの原則、第一は自己保存、身体の全機能・全器官が自己保存のために出来ておる、第二は種族の維持発展、腎臓にしても大脳にしても、あらゆる解剖学的全機能がそういう風に出来ている、第三には無限の精神的心理的向上、人間は精神的心霊的に無限に向上する、上達するように出来ている。人間は自分が自分に反って無限に向上する、これは古学も現代学も哲学も科学も永久普遍の真理であります。自己の本分を尽くす。「礼」部分と部分、部分と全体との調和・秩序、自己とは自律的統一と共に、自律的全体、全体的調和、あらゆる自己が分として自分として全体に奉仕してゆく大和してゆく、円滑なダイナミックな状態を「楽」という。人間の原理・原則は古今東西同一である。無意識的活動、真実の世界・生命の世界に入って行く。直観とは内的生命の統一から出て来て所謂心の世界・直観の世界が開けて来る。化・心と輿に成る。物事は時間をかけて習熟する必要がある。哲学の体系は先ず綿密な構造を持つ完足的な建築で、そこにはあらゆる問題を便利に宿らせるような仕組みがしてあるもののように見える。こういう形を持った体系を眺めると、職業的な満足を伴う美的な喜びを感ずる。その錯綜の中に秩序、それを描きながら補って行くのを楽しみとする秩序を見出し、その材料が何処から来てその建築が行われたかを知って満足を感ずる。学説が姿を変えて行く。部分部分が互に入り込んで行き最後に全体が唯一つの点に纏まって段々それに近付いて行ける。様々な学説の色々と部分的な類似、あちこちで拾った大思想の断片を以て、それだけの力があるわけですから、見事な寄木細工を仕上げる錯覚。段階的には論理も最後は直観だ。哲学は集合物よりは寧ろ有機体に似て合成というよりも進化と云った方が優ってゐる。世界に何か新しいものを齎す思想は、それがぶつかって自分の運動の中に巻き込む既に出来上った様々の観念を通して表される。スピノザの『エチカ』実体とか属性とか様相とか呼ばれる大掛りなものや繋がり合った定義や系や註を具えて物々しく続く定理や、複雑極まるからくりや威圧するような力があって、戦艦を見るように感歎と恐怖に襲われる。デカルト思想やアリストテレス思想と類縁を持つ概念の重々しい魂の背後にあってスピノザに属してゐたのは直観、直観は単純、近似を以て甘んずれば、我々の精神が完全に真理と認識するための作用と神が真理を生み出すための操作との間に存する一致の意識、アレクサンドリア派の説く『帰入』が完足的になった場合には『發出』と一つになり、神から出た人間が神に帰るようになれば、最初往くと復るの二つの相反する運動を見たところに単一の運動を知覚する、その際倫理的な経験は論理的な矛盾を解決することと時間を突然除去することによって復りは往きであるとさせることとを引受ける。新プラトン派において發出は一即ち悟性を生じ、次に霊魂を生じ、次に世界と個物を生ずる流出であり、帰入は個物が静観即ち一種の悟入によって始原に帰る過程、文字通りには寧ろ回向である。
