偏執狂か、お前は・・
身体は鍛えれば鍛えるほど効果が出る、筋肉力も付き、肉体的能力も上がり高まる。ルネサンス以来の西欧近代思想を論理学、自然哲学、精神哲学からなる体系に構築して、現代哲学の母胎となったへーゲル哲学。超越的な神が頭上に君臨し、その神への帰依を説く教祖が存在し、救いを求めて神に祈りを捧げる信者たちがいるという構図、キリスト教の完成とキリスト教的真理の確立の為に結合した宗派教団にも見出されるような性格〔神への絶対服従、規律の遵守など〕はすべて、後にもっと大規模に一般化したキリスト教会のもとに見出される。教会は今や国家をなしている。哲学が一丸となって絶頂を極め、人間がこれほど高められたこと、人間の尊厳を高く評価し自由の能力を認めて、すべての精神の平等な秩序の中に人間を配置する。人間性が尊敬に値するものとして現れていることこそ時代の何よりも良い印だと思う。カントの道徳の世界は現象の世界から截然と区別される。それぞれの世界はそれぞれに完結した世界をなしている。叡智と感性界、物自体の世界と現象の世界、本体界と現象界、といった用語法にも表れているように、道徳法則のすむ超現実の世界は現実の世界よりも価値の一段高いものと見なされている。現実世界への随順を旨としつつ、しかも道徳理念の超現実的絶対性を救おうとすれば、互いに切り離されて上下に位置をとる二つの世界を構想することは、極めて理に適っていた。意思の自由に基づく道徳の世界を超現実的な物自体の世界として確定しさえすれば、もっとカントの意識に即した言い方をするなら、自分の内なる道徳理念が現実を超えた絶対普遍の理念として確認できるならば、現実の世界においてはどんな服従も妥協をも耐え忍ぶことが出来る。極端に主観主義的な道徳哲学が生まれた。観念は形而上学的世界へと果てしなく上昇して行く。道徳法則を仰ぎ見るとき、叡智としての私の価値は私の人格を通して無限に高められ、その中で動物界からも感性界全体からさえも独立した生活を私に啓示する。私の生存がこの法則によって合目的的に規定され無限に進んでいく限りで、そう推測する。主観の内面性と現実世界の客観性を共に持とうとする若い情熱が、道徳理念による社会変革という畸形物を生んだ。へーゲルにとってカントは終始哲学上の最大の敵手であったが、最初の本格的対決が道徳理念の主観性を巡るものであったことは、二人の哲学的資質の違いを見事に象徴しているといえる。カントは現実世界では感性的調和を道徳の世界では理念的な普遍性を、という使い分けに満足することが出来たが、現実の理念的統一を理念の現実的客観性を一つのものとして追い求めるへーゲルは、同じく観念論的哲学といえるにせよ、カントとは異質な哲学に赴いた。『キリスト教の精神とその運命』では、カントの義務道徳の主観的一面性を超えるものとして愛の理念が提示される。愛の勝利は敵対関係を克服することにある。愛は精神の一体性であり神的なものである。愛によって初めて客観的なものの力は破壊される。愛は無限である。義務や徳の限界を愛によって乗り越える論理は、反定立から綜合に向かう後年の弁証法論理を体現している。愛による客観の破壊は同時に客観的現実による愛の克服、主観と客観の統一体として現れた愛が完成すると同時に更に克服さるべき一面的なものとして捉えられる。愛は神的精神、愛が宗教となるためには同時に客観的形式のうちに表現され、一つの感情、一つの主観物たる愛は、表象された一般的なものと融合して、崇拝の対象たりうる価値物という形式を獲得する。主観的なものと客観的なもの、感情と対象を求める感情の要求、知性と想像力を、一つの美しい神の内に統一したいという欲求は、人間精神の最高の欲求だが、それこそが宗教に向かう衝動なのである。主観的な愛と対立しつつ宗教へと引き上げていく客観は一つの歴史過程として捉えられていた。へーゲルはそれを運命と名付けている。運命として捉えられた客観的現実は、どんな主観的原理も内面的心情も含む絶対的現実という意味を孕んでいた。愛の論理が弁証法論理の原初形態だとするなら運命の論理はへーゲルが歴史の必然性を初めて明確に対象化したことを告知する論理であった。歴史的現実と鋭く対立するものがかえって明瞭に歴史の必然性を浮かび上がらせる、というへーゲルの歴史哲学の逆説的真理を青年へーゲルの運命観の中に読み取る。運命に抗う者が最も強く運命を感受する。その逆説が、ユダヤ教の運命、イエスの運命、キリスト教の運命に、いずれも強い悲劇的色彩を与えていた。時代の連綿とした運命の中で発展してきたキリスト教のあらゆる形態の内には、神的なものにおける対立という根本性格が宿っている。キリスト教の神は意識の中だけに存在する。ありとあらゆる生活を精神が精神自身の内に生きるといった至純の生活をも拒絶して神のみを意識し死に至っては初めて人格の分裂を拭い去ることが出来るような狂信者の亡我の一体境から、世界の運命との一体化や神と運命との対立を様々に意識する現実的意識に至る領域の中を、あらゆる行動や生活態度の内に対立を感じつつ、隷属と自分の虚しさの感覚の内に対立を受け止めることによってその行動や生活態度を正当化するカトリック教会につくか、神と世界の対立は敬虔な思想をどの程度もっているかの違いだとするプロテスタント教会につくか、生活を一つの汚辱ないし侵犯と見て、これと対立し、これを憎悪する神を頂く幾つかの宗派につくか、それとも、善なる神を戴いて、生活および生活上の喜びは神の好意ないし贈物としてそっくり受け入れ、受け入れられた現実の中で、現実を超えて浮遊する精神形態を神人、予言者などの観念に絡めとって歴史的客観的に目に見えるものにしてしまうか、世界に対する友好、憎悪、無関心、と様々に揺れ動いては衰弱していく意識のどの極端をとるか、神と世界、神と生活の対立のうちに見出される極端のどれを取るか、そうした選択の環の中を行ったり来たりするのがキリスト教会である。分裂と対立、極端から極端への変転と動揺、それがキリスト教の運命だと結論を下すへーゲルは、圧倒的な歴史の事実を前にして、その事実をありのままに語り出すことで観念的心情的にその事実に関わろうとする叙事詩人、歴史上の事件や人物の鎮魂者に近い位置に立っている。鎮魂者たる叙事詩人の目に見える運命は、もはや主観的原理によって乗り越えられるもの、その流れの中に主観的原理や道徳的心情を隠顕しつつ、それらを包み込んでゆったりと冷酷に自分の歩みを貫き通す何かであった。嘗て完璧な道徳宗教の実践者と見なされ今また純粋な愛の宗教の唱導者とされるイエスも運命に抗いつつ結局は運命の手に操られた。
