感情の起伏も超激しい。
頭脳のネットワークが完全に繋がって頭がスッキリした気分だ。人類が健康に対して抱く切なる願いは遠く神話の時代から宇宙開発に乗り出した現在まで続き、生命は今だ未知の領域です。帳簿がさっと開かれる時、天がめりめり剥ぎ取られる時、地獄がかっかと焚かれる時、天国がぐっと近づく時、どの魂も己が所業を知る。現世の所業の総計、善いことも悪いことも大きなことも小さなことも実際にしたこともし残したことも、すべて提示される。現世で自分のした一切のことを洗いざらい見せつけられる日。黒目写真を印刷したから黒インクが滲んで良い感じ・・クリスマスまでには死ぬほど死ぬより彼女が欲しい・・何時か理想の女性が突然現れてくれると毎日期待している。天は自ら助くる人を助く。自然に帰れ。最も良いものを全身で受け入れるため、全善なる神の御旨により一層適うものを願望し、それを知るため、神のより一層栄光となり、自分の救いのためになるものを選ぶため、黙想をする。隠覆された愛着が選定を左右する。仏教の唯識論が明らかにしたように、煩悩・執着はマヤ識やアラヤ識（深層心理）に巣喰い、悪業の薫習（強い香が衣服に残るように善悪の業がアラヤ識に影響力を残す力）の結果、アラヤ識には習気（業の潜在的余力）が残っており、これを滅却するためには、道元は無所得・無所有を説き、臨済禅では大死一番の覚悟をもって坐禅に全身心を投入する。キリスト教でも原罪の結果、人間の深層心理には七つの罪源が残っており、これが人間に罪を犯す潜在的を及ぼしていると説く。愛着や執着への放棄を通して生ずる自由自在な境涯、禅の自由闊達な境地と共通である。神が霊操者の心を動かし神の奉仕と讃美のために一層よいと思われるものを示してくださる。ここに神の自由な呼びかけと、それに対する人間の自由な応答が同時現成してくる。神の望むことが人間の心から望むことになる。神の恩寵は人間に全き自由を与える。神と人間が同じ一つのことを望み、両者の全き一致が成就する。イグナチオが目指した「自由に基づく醒めた神秘主義」である。深い神体験をしたモーセのように、神聖で全能な御方の前に平伏し、自分が塵（全き無）であることを悟り、どんな困難があろうとも神の御旨を遂行する。愛によって動機づけられ愛のダイナミズムに貫かれている。最も完全な謙遜の段階、愛は全面的に表面に現れ、謙遜の中核・根本動機となる。謙遜と愛が一体化する。道元が『仏向上事』で説くように、完全な解脱の境涯を打破して更なる向上を求めて「仏」さえも超えようとしたように、イグナチオは聖者の聖なる境涯を乗り越えて、イエス・キリストとより一層一体化することを熱願する。一日中を省察と対話に捧げる。神の活きと一つになる。神の活きとは人間の智慧を遥かに超越した智慧の智慧、神の智慧に満たされ神の御意志を聞き従うために最も良い準備を完了した者、意向の眼を純一無雑にする。創造された目的（神の讃美と救い）を目指す。我々の存在意義（レゾン・デトル）究極目的、他のすべての目的や手段は究極目的の手段である。主なる神への奉仕と讃美と自分の永遠の救い、その為の手段である。慰めと荒みの経験、選定に必要な光明と知解が十分に得られる。人間は最高の自由を得る。霊操者の身心は神の活きによって満たされ最も活動的となり最良の均衡に達する。神は慰めと荒みの霊動を通じて、御自分の意志を霊操者に伝える。これらの霊動は無言の「神の言葉」である。各自は、自愛心、我欲、利己心から抜け出す度合いに応じて、すべての霊的な事柄において向上するものであることを心に銘記する。仏教の中でも特に禅仏教は自己放棄、利己心からの脱却を説き、「仏向上事」（仏をも超えて修行する）を修證の一大事とする。霊操者の自己放棄は神の愛の自由を生きるため、父なる神が御子を通じて我々に注ぎ込まれた神のいのちを生きるため。苦悩するイエスの人性と一体化することによって、神御自身の受肉へ現実的に参入することになる。
