神秘体験から霊操が生まれた。
この神秘体験は神・人間・世界（自然）を包括する全体知、全体愛である。それは創造と救済の歴史全体を包摂する智慧である。この神の全体知・全体愛の中には、我々一人一人に対する個人的な知と愛が含まれている。この神の個人的な知と愛を知ることによって、霊操者は神と深い交わりに達すると同時に、その神的な全人類を包括する全体知・愛に基づいて、個人的な真の自己に目覚め、全人類に対する自己の使命を自覚することによって、全人類的な真の自己に目醒める。現代は人類全体が、地球人、宇宙人としてこのような人類的な真の自己に目醒め、新しい未来を創造しようと志向している。人類の現代的境位において、霊操が与えようとする全人類的な「真の自己」の自覚は重要な役目を果たす。霊操のもう一つの現代的意義なのである。霊操者の根本的な心構え「大勇猛心と創造主への寛大な心」、全身心を捧げ尽した。このような心構えをもった霊操者の心身は既に「根源と礎」が実現している。霊操者が根源と礎を頭で理解し自己反省することによって、根源と礎が自分の心身全体に実現していることを自覚しうる。隠れた神の創造の活きに基づく自覚、人間存在は神の活きによってダイナミックな方向性が与えられていて、「神を讃美し敬い仕える」という究極目的に向かっている。心構えは目的への志向性の具体的な現れ、霊操者は「根源と礎」を深く省察することによって自分の実存に刻み込まれていた根源的志向性を自覚にまで高める必要がある。自己の根底にまで深く沈潜して省察する。根源的志向性を自覚した霊操者は、それとの類比によって、地上の他のすべての存在者が同じ目的に向かっており、しかも人間の仲介を通してそれを実現しようとしていることも分かってくる。私の意向と行いと活動のすべてがひたすら純粋に神聖なる威厳に満ちた方への奉仕と讃美だけに向けられるよう祈る。デカルトの自己は西田哲学の用語で言えば意識的自己、霊操の自己は行為的自己である。前者は考える主体であり、対象（自然・他者・神）に関与する前に自己に帰るから、主客は対立し、人間と他者、人間と自然、人間と神の間に隔たりが生じ、自然・他者・神は外から眺められる。それに対して霊操の自己は自然の中で働き他者と共同で生き神と関与しながら行動する。この自己は自然・他者・神との交わりの中に立ち、その交わりの中で行為する主体である。この世界においては、神も自然も人間も行為するものであり相互に働きかけ合う。霊操全体は行為的自己の世界において読まれ解釈される。読者が意識的自己から行為的自己に転換してはじめて『霊操』を正しく解釈し実践できる。霊操は実践する本である。       
