神話的想像には、常に対象が実在するという信念が含まれている。
神話も科学も同じ実在を求めていると考えられる。我々は神話をダイナミックな原理のうちに把握するように努力する。神話は二重の姿、一方では概念的構造、他方では知覚的構造を示し、一定様式の知覚に依存している。経験的思考において興味のあるのは感覚経験の恒常的特性である。この場合、常に実体的なものと偶有的なもの、必然的なものと偶然的なもの、不変的なものと一時的なもの、の間に区別を設ける。峻別することによって固定的で一定した性質を具えた物理的な「物」の世界という概念に到達する。このような操作はすべて分析的過程を含んでいる。神話的世界は、いわば物と性質、実体と偶有を区別する我々の理論的世界よりも遥かに流動し変動する段階のものである。神話的世界と理論的世界の差異を把握して、これを記述するために神話が主として知覚するものは相貌的特性だということが出来る。自然は、経験的または科学的意味においては「一般法則によって決定される限りの事物の存在」として定義できる。神話の世界は劇的な世界、行為の世界であり力の世界であり相闘う勢力の世界である。自然のあらゆる現象において神話的世界は勢力の衝突に注目する。神話的知覚には常に情動的性質、特別な雰囲気、悲喜、苦悶、興奮、昂揚沈鬱の雰囲気によって取り巻かれている。すべての物は好意か悪意をもつものであり友情か敵意を抱くものであり親しみか気味悪さを示すものであり誘惑的魅惑的また反発的威嚇的なものである。この人間経験のエレメンタリーな形態を容易に心に浮かべることができる。文明人の生活にさえ存続している。激しい情動的興奮状態にあるならば、我々もまた、あらゆるものについて劇的な概念をもつ。それらは突如その相貌を変化する。それらは我々の熱情すなわち愛情または憎悪、恐怖または希望の特殊の色彩を帯びている。我々の経験の、この本来の傾向と科学によって導入される真理の理想との間の対照は極度に大きいものといえる。相貌的性質は自己だけの領域に局限されている。科学の一般的方法を特徴づけるのは主観的性質の制限である。人間的経験の各側面が現実的たることを要求している。数量の真の意味は一般的であるということ、数学的表現は認識の新しくより包括的観点、より自由で広い認識の水平線を我々に与える。しかし、数をピタゴラス学派のように実在視すること、数を終局の実在であり物の本質であり実体であるかのように語ることは形而上学的迷妄である。苦々しい悲惨な美しいユーモラスな着実な不安な気持ち良い煩い味気ない目障りな慰めとなる素晴らしい恐ろしい、経験的にいえば物はこのようなものである。直接体験としてこのようなものであり、このような性質を本来もつ権利を有している。これらの性質それ自身は正に色、音、触覚、味および臭いと同列なものである。後者を終局の堅実な素材と見ようとするときの基準は前者についても同じく堅固な素材だという結論に至らせる。どんな性質も、そのものとしてみる限り終局のものである。それは同時に最初のものであり最後のものである。正に存在するままのものである。我々は神話的経験の性質を「直接的な性質たること」として捉える。必要とするのは神話的生活の解釈、神話は教理的信条の体系や単なる心象または表象であるよりも遥かに行為なのである。このような見解がますます有力となったのは近代人類学および近代宗教史の確固とした進歩の結果である。歴史的な意味でも心理学的意味でも儀式が教理に先行するということは今日一般に承認されているマキシムであろう。動的な神話の根本原理を把握する、行動によってのみ記述できる。原始人は彼の感情および情動を具体的で直接的な方法で表現する。我々は神話および原始宗教の構造を了解するためには表現全体を研究する。原因を求めるとしても神秘的原因。我々の日常行為の中には自然法則に対する冷静で完全な信頼が含まれている。原始人にとって住む自然、その中のすべての物と生物は神秘的所属関係および非所属関係の網のような組織の内に含まれている。原始宗教の神秘的性質は、その表象が集団表象であるという事実そのものから生じている。初期の進歩段階において人間が混沌とした世界（此処では現実的なもの及び非現実的なものが渾然とした一体をなし、神秘主義と理性が混乱した国で偽造した貨幣と本物の貨幣が交換されるように互いに交換されうる）に生存しているのだと仮定するのは誤り、呪術と宗教的儀式の真の本質は、それが知識以外の場所にのみ入り込むということである。超自然的に基礎づけられた儀式は生活から成長する、呪術または宗教儀式において人間は奇蹟を行おうとするが、これは彼が自己の精神的能力の限界を十分に認めているから。更に一歩進めて、宗教が自らの主題をもち正当な発展領域をもつという真理を断然確立したいと思うならば、事実認識は絶対必要なものである。神話の真の基礎は思考より感情である。神話および原始宗教の統一は論理的規則よりも遥かに感情的統一による。この統一は原始的思考の最も強く深い衝動の一つである。もし科学的思考が現実を記述し説明したいと思うならば、一般的方法すなわち分類および体系化の方法を必ず用いる。生物は互いにはっきりと区別された個々の領域に分たれる。植物界、動物界、人類の間の境界、種、科、属の間の差異は根本的、原始精神はこのようなものをすべて無視する。生物についての見解は総合的、不断の連続した全体、流動的変動的である。何ものも突然変態どんなものにでも転化する。原始人の自然に関する見解は共感的である。神話は情動の結果、その情動的背景が神話の創作物を、すべて、それ自身の独特な色彩で染める。自然および生物の個々の形態の多様と多彩を埋めるような根本的で厳存する生命の連帯についての強い確信がある。あらゆる形態の生命が同じ血縁で結ばれているということは神話的思想の一般的前提であろう。神話的および宗教的感情において自然は一つの大きな生命の社会となる。人間はその一部分、生命は最も低級な形態においても高級な形態においても同じ宗教的品格を持っている。人間と動物、動物と植物は、すべて同列にある。空間から時間に目を転じても同じ原理、生命の連帯と不断の統一の原理を見出す。その原理は同時性にも継時性の秩序においても当てはまる。人間の世代は連鎖を形成している。前の時代の生命は生れ変りによって持続される。祖父の霊が新しく生れた孫に若返った状態で出現する。現在、過去、未来は混合し、世代間の限界はなくなった。生命が連続と統一を保っている。原始宗教は恐らく人間文化中に見出す最も強力で強烈な生の確認であろう。未開人は個人的感情も社会的感情も不死の確信に充たされ、人間の生命は時空間において無限である。それは自然の全領域に拡張し人間の歴史全体に延長している。ハーバート・スペンサーの主張した説によると祖先崇拝は宗教の最初の源泉で起源だと見なされるべきものである。
