16歳のあの日の様に無限の力に無限大∞の能力に心踊って躍っていた今だ。
16歳の軌跡道程の今脳、16歳の軌跡道程の今枠、16歳の軌跡道程の今顔、16歳の軌跡道程の今身体、全脳、全枠、全顔、全身体、過去の嘗ての何もかも全部今枠に復活し戻って来て居る有る存在する。16歳の過去の嘗ての絶対圧倒超人的に優れていた感覚が今再び甦る蘇る・・時間の永遠性も空間の無限性も時空間の永遠無限性を感じ全時空間に十充分遍充満し時空間を超越しているから16歳にも軌跡道程にも何歳にでも全歳になれる枠だ。世界経済は急激に変化している。論理的な思考回路さえ持っていれば、必ず新しい世界でも臆せずに戦っていくことができる。新しい時代は、思考力によってきわめて大きな格差が生まれる時代、すなわち「思考力格差」の時代なのだ。書物を読むということは自分の思想がそこまで行く、一脈相通ずるに至れば暗夜に火を打つが如く一時に全体が明となる。偉大な思想家の思想が自分のものとなる、そこにそれを理解したといい得る。偉大な思想家の書を読むには、その人の骨を掴む、そして多少とも自分がそれを使用し得るようになる。偉大な思想家には必ず骨というようなものがある。大なる彫刻家に鑿の骨、大なる画家には筆の骨があるのと同様である。読書は何処までも言語の先々迄も正確に綿密である。一時代を齎した偉大な思想家、大きな思想の流の淵源となったような人の書いたものを読むべき、かかる思想家の思想が掴まるれば、その流派は恰も蔓を手繰るように理解せられて行く。そういう思想がどういう歴史的地盤において生じ如何なる意義を有するかを知り置く必要がある。況して今日の如く、在来の思想が行き詰ったかに考えられ、我々が新に踏み出す時代には尚更と思う。如何に偉大な思想家でも一派の考が定まるということは色々の可能性の中の一つに定まることである。それが行き詰った時それを越えることは元に還って考えて見ることによる。如何にしてこういう方向に来たか、そういう意味においても思想の淵源をなした人の書いたものを読むべきだといい得る。多くの可能の中から或一つの方向を定めた人の書物から他にこういう行方があったということが示唆せられることがあるのでもあろう。行き着いて帰ってみれば同じ、真に悟ればすべてありのまま。トマス・アクィナスの思想は、実に明晰な全体がよく整った大きな美しい体系のようである。楽想が湧いて来る時は大きな作曲の全体が一時に眼前に現れ恰もそれを見つつ写す如く譜を書いた（モーツァルト？）。彼にすべての学問が含まれている。やはりアウグスチヌスが中世第一の偉大な思想家であると思う。有名な『神の国』も『三位一体論』も、始めは聖書によって論じて来て中途から深い内的体験と論理とに興味を有っていた。アウグスチヌスで歴史的生成の立場といえば聖書においての歴史的世界の創造の立場である。近世哲学は科学的世界の哲学、ギリシャ哲学はポリスの哲学であるとすれば、中世哲学は歴史的世界の哲学とも考え得る。歴史哲学はアウグスチヌスに始まると考えられる如く歴史的生成の立場から世界を見るということがアウグスチヌスに始まるとも言い得る。アウグスチヌスの歴史哲学は全くキリスト教的制約の下に立っているのであるが、こういう立場から彼の書を見直して見たい。ガウスが進んだ道は即ち数学の進む道である。その道は帰納的である。特殊から一般へ！それが標語である。それは凡て実質的なる学問に於て必要なる条件である。数学が演繹的であるというが、それは既成数学の修業にのみ通用する。自然科学に於ても一つの学説が出来てしまえば、その学説に基づいて演繹する。若しも学問が演繹のみに頼るならば、その学問は小さな環の上を永遠に周期的に廻転するだけだ。これは数学的思索に苦労した体験者の言なのであろう。普通に帰納法といえば特殊から一般へといわれ、それが科学の方法と考えられているが、逆に我々は特殊の中へ深く入って行くと考えることができる。特殊を破ってそこに一般に撞着する、体系の中心を把握するということができる。真理の体系というのは何処までも何処までも複雑美妙なる世界であって奥底がない。複雑美妙で隅の隅まで統一せられた世界、何処までも統一した世界、それ自身において統一した世界、いわば生きた世界であるのである。普通に生きたものといえば有機体を考えるが、有機体はなお細胞が全体に従属的であるが、真に生きた体系というのは、特殊の極限としての個物が即全体、全体が即個物である。かかる体系が創造的体系、何処までも特殊に入ることは一般に行くこと、何処までも一般に行くことは特殊に入ること、何の学問的知識の組立も、かくの如きものであろうが、数学においては一般と特殊との両端が内的に結合していて、それ自身で生きた一つの歴史の知識の世界であるかに思われる。いわゆる創造的体系である。特殊を破ってそこに一般を把握するものが直観、そこに創造的萌芽という如きものが把握せられる。アルキメデスのプウ・ストウ、立所皆真、私が立つところ「私に、その上に私が立つことのできる一点を与えよ。そうすれば私は世界を動かすであろう」万物のいわば原点。偉大なる天才は何処か大きなプウ・ストウを把握した人である。多くの学者はその後から進んで行く。そして大きな学問の殿堂が建設せられる。如何なる偉大な天才によって把握せられた深い大きな立場といっても何時かは行き詰る。創造的体系は無限の進行である。近代数学を貫く傾向が公理主義的、作用の代数学、元の個々よりも元全体の体系としての構造について見るのであり、個々の元もその全体に浸しての個々なることである。吾々の作用の自覚、作用自体がそれを律する法則によって公理化せられ対象として定立せられ又記号化せられた。生な素材よりも寧ろ数学史の中に足場を置いて居ることは事実としても又その対象は直接の自然より遥に抽象的なるものであるにしても自然の中に沈潜し且つ滲潜したと見るべきであろう。具象的な数なり函数なり運動なりの個々の事実又は知識より帰納したものを要はその論理的骨組に於て把握し自然に浸ってその論理的機能の透視図を得ようとするにある。従ってそれは極めて内観的であり又鳥瞰的である。哲学を作用の自覚、歴史的自己の歴史的作用というべき、歴史的現実に沈潜しかつ滲透して、その論理的骨組を把握する、自覚的に把握する、分析的に直観する、かかる把握は何処までも内観的なると共に鳥瞰的である。公理主義とは当面の具体的な問題を種々の面に分析して抽象的体系の理論を建てる、かくして得た結果を各面に特殊化し、それを綜合して元の合成物に立ち帰る方法手順であるといったとあるが、合成物という代りに具体的現実というべきであろう。学問は一面に何処までも抽象、抽象とか分析とかいうことも何処までも具体的現実の立場からである。数学と哲学は何処か考え方に相通ずるものがある。
