16歳に遡り一点集中し軌跡道程ごと枠に取り込み入れながら16歳丹田から広がる中心核枠、後悔すべき汚く恥ずかしい過去も飛ばし飛び書き換えられる。インドには現世的と同時に来世的精神の双方に鼓吹されたいくつかの偉大な物質文明が栄えた。多くの様々な異なった方法で合一を求める神秘主義的探求、人々は人生の諸相の中に神的存在を見出した。俺と枠の結融合一、そのもの全体全面の中心核の何処までの部分を占め専有しているか。16歳は肉体の枠という一点、過去は一点、未来は全面、未来において既に完全に合一している。ダマスカスのヨハネは、人間の完全性を回復させ、人間を神の全性と段階的に一致させることのうちに働く自然本性と恩寵との相互作用について語ったが、それは神との合一への道である神格化であった。ナジアンスのグレゴリウスは、霊魂が神のエネルギーを受け取ることができるように、神は霊魂の神的部分に息づいていることを説いた。証聖者マクシモスは、恩寵が人間本性を統合して恩寵によって神的となる有様を示したが、これは本性によって神であるキリストとは対照的である。キリストは我々にとって一つのサンプルである。神性と人性の究極的合一を肯定する。人間の神化は、神がすべてにおいてすべてとなる世界が来る時完成される。合一へ至る三つの段階、意志の回心である改悛、情欲から自由となる純化、そして恩寵による完全な愛である完徳であった。合一の最高位においては、魂は神の深淵に没入し神と一つになる。神は真に彼の中にあり、いかなる場所でも彼と共に居る。彼のなすことすべては神に集約される。神はすべてをもって魂の中へ入る。神は魂へその核を通じて進入する。神だけがその核に接触する（エックハルト）。時が経つほど時間が流れるほど、中心核に近付け付き、その身に心に16歳も軌跡道程も含め収めていくのだ。そのもの全体全面の中心に位置する16歳から中心核、俺の中心に位置する枠、二つが一つに合一する、始から一つなんだ。16歳に遡り一点集中し軌跡道程ごと枠に取り込み入れながら16歳丹田から広がる中心核枠、後悔すべき汚く恥ずかしい過去も飛ばし飛び書き換えられる。インドには現世的と同時に来世的精神の双方に鼓吹されたいくつかの偉大な物質文明が栄えた。多くの様々な異なった方法で合一を求める神秘主義的探求、人々は人生の諸相の中に神的存在を見出した。俺と枠の結融合一、そのもの全体全面の中心核の何処までの部分を占め専有しているか。16歳は肉体の枠という一点、過去は一点、未来は全面、未来において既に完全に合一している。ダマスカスのヨハネは、人間の完全性を回復させ、人間を神の全性と段階的に一致させることのうちに働く自然本性と恩寵との相互作用について語ったが、それは神との合一への道である神格化であった。ナジアンスのグレゴリウスは、霊魂が神のエネルギーを受け取ることができるように、神は霊魂の神的部分に息づいていることを説いた。証聖者マクシモスは、恩寵が人間本性を統合して恩寵によって神的となる有様を示したが、これは本性によって神であるキリストとは対照的である。キリストは我々にとって一つのサンプルである。神性と人性の究極的合一を肯定する。人間の神化は、神がすべてにおいてすべてとなる世界が来る時完成される。合一へ至る三つの段階、意志の回心である改悛、情欲から自由となる純化、そして恩寵による完全な愛である完徳であった。合一の最高位においては、魂は神の深淵に没入し神と一つになる。神は真に彼の中にあり、いかなる場所でも彼と共に居る。彼のなすことすべては神に集約される。神はすべてをもって魂の中へ入る。神は魂へその核を通じて進入する。神だけがその核に接触する（エックハルト）。殆どの宗教は、一人の人間の神秘体験と称される非日常的な特異な宗教体験からスタートしており、その意味では神秘主義はあらゆる宗教の根底であり源泉であるといえよう。歴史上の宗教思想家や聖人の殆どは、人生のある時点において決定的な神秘体験をしており、それをきっかけに宗教活動に入ったり、あるいはその体験がその後の活動の原動力となっている場合が多い。言葉には表し難いと言いつつも、彼らが自己の体験を語り伝えた資料は膨大なものになっており、その学問的科学的検討は漸く緒についたばかりのようである。個人的な宗教体験によって神性との神を直接に知る。日常的意識の変換、その状態がエクスタシーや瞑想と称される。神秘主義という観念に根本的なものは合一体験であるが、異なった種類の合一が存在するばかりか、合一が成し遂げられる対象についての解釈も区々である。キリスト教、ユダヤ教やイスラム教などの有神論の神秘主義では唯一なる神と人間との合一が求められる。一方、インドのウパニシャッドやシャンカラの不二一元論などの一元論の神秘主義では、神とは異なるブラフマンのような普遍的原理と人間とが同一であることが求められ主張される。またあらゆる物の中に神を認める汎神論においても万物と人間との合一が求められる。私に繋がっていなさい。私も貴方に繋がっている。合一とは神と人との神秘的合一、合体、交わりであるが、それはどこまで進んでも区別されたまま、これに対し同一という考えにおいては、最高存在者ブラフマン（梵）に人間（我）は融合吸収されてしまう。つまり梵我一如となる。多くの異なる川が大海に流れ入れば一つになる。個人的魂と普遍的魂は本来的に同一であり、存在するのは抽象的最高実在ブラフマンのみ、「個人または精神、人間または神、善悪さえ一つ」・・インドには『パガヴァッド・ギーター』のように有神論的で、クリシュナすなわちヴィシュヌ神との合一を説くものも存在し、イスラム教や仏教、更に同じ宗教の内部でも個々の神秘家によっても微妙に違っている。仏教を例にとっても、原始仏教と大乗仏教では更に大きな相違が見られる。仏教では合一の対象となるのは神より仏性であろう。自己との合一とは悟り、個人的自我より仏性・空のみが存在することになる。一方、浄土系の仏教には、阿弥陀仏や観世音菩薩との合一を願うものもあり、有神論的様相を呈している。いくつかの点で、キリスト教思想は、ユダヤ教の一神教よりもインドの一神教に接近している。ヒンドゥー教の化身思想はキリスト教の受肉思想に近い。人々から深い信仰を捧げられるヒンドゥー教の人格神、人格としてのブッダや菩薩までもが、復活以来信仰を形作り時代と共にキリスト教神秘主義の中心であり続ける人格としてのキリストに比べることができる。神が送り出す一条の霊的光、貴方と神の間にある不可知の雲を貫き、神の神秘のあるものを貴方に示す。霊において愛において意志のままに神と一つになる。汝は汝の神の下にあり。神はその本性によって、また無始より神であるのに対して、人間は嘗ては無であり、後に罪を犯して、恩寵によってのみ永遠に神と一つであることができる。貴方のことを想うと喜びに溢れ愛の想いが高まり、大好きな貴方を私のすべてをかけて抱き締めたい。これは神秘的合一でありエロティックでもあるがアガペーである。魂と神が一つである。神は我々にとりすべてであり、我々を愛で包み込んで抱き締め覆ってくれる着物である。心からの安息と真の至福を得る。魂を神と一つに
