16歳は丹田だから今枠は永遠の少年であり成熟した青年であると言える。
また（そのもの全体全面）俺の（中心核）枠の全身体中に無限の無限大∞の絶対圧倒超人的な巨大強大絶大甚大壮大強烈壮烈猛烈なる力が気がエネルギーが湧き上がり溢れ漲り充溢充満充実している、俺の枠の中に内に内部に宇宙あり、光より速いスピードで広がり膨張を続けている、超新星爆発が核融合分裂爆発が銀河団の衝突が起こっている、星星が煌めき眩しく輝き瞬いている。何もかも全部全身に充実している。生まれ流れ出す源は中心、普遍的絶対者は全体全面、枠はその具象具体具現実化した象徴でもある特殊な一部だ。道徳とは神に似た心情であり、具象的なものの限定を越えて端的に普遍的なものの国へ昇ることである。自己と対立者との同一、可能性と現実性との同一、普遍と特殊とを統一のうちに示現することを一般に構成という。同じ統一は形相と本質との統一として表現される。いわゆる学問の大部分におけると同じように、通俗的な知識においても支配的である因果結合の法則を越えて、知識を純粋な理性同一の領域へ高める。全体の中の一点と中心だ。これからは頑張って頑張って頭も心も体も鍛え上げ高めて女抱き金稼ぎ捲るぞー！！数学は根源に還り自己のうちに表現されている理性の範型を一層普遍的に理解しなくてはならぬ。抽象体における数学が、まさに具象体における自然のように、理性そのものの最も客観的な表現である限りは、純粋理性法則にまで溶解するような一切の自然法則は、それに対応する形式を数学のうちにも見出さなくてはならぬ。数学と自然科学は、異なった側面から見られた全く同一の学問である。数学は、根本知を、すなわち絶対的同一を、ただ反照においてのみ示し、またそのことから必然的に結果することだが、分たれた現象のうちに示す限り、なお単に模写の世界に属している。〔もとより数学が示現するのは理念、事物そのものの真の根本質並びに根本形式、ではあるけれども〕哲学こそ根本知の学問である。哲学と数学とは、両者が普遍と特殊の絶対的同一に基づいて成立するということ、両者は、こういう種類の統一がいずれも直観のうちにあるということにおいて相等しい。一切の統一の根底に存する普遍的統一と同じように、その各々が自らのうちに根本知の同じ絶対性を摂取している特殊統一も理性直観のうちにのみ含まれてある。そしてその限りそれは理念である。それゆえ哲学は理念或は物の永遠な原像の学である。幾何学者は普遍的なものを特殊のうちに見る。直観を育成して自己のものにする。哲学者においては、直観はいわば性格となり確固たる器官となり、また一切が理念のうちに示現しているありのままを見得る練達となる。哲学はそれ自身の存在によって効用関係から自由だと断定されている。哲学は自身のために存する。国家制度は理念の国の制度の映像である。理念の国においては、絶対者は一切を流出せしめる力、すなわち君主であり、諸理念は自由民である。同じような順位が学問の間にもある。哲学は理念のうちにのみ生き、個々の現実的な事物を扱うことを物理学や天文学等々に委ねる。あらゆる学問は、哲学によって、また哲学のうちにおいてこそ一となる。哲学はその本性上、包括的、普遍的なものを目指して努めている。個々の人間において、或は人類全体において、高級な学問性の普遍的精神や理念による啓発に個々の事物の極めて溌剌たる多様な認識が結び付くならば、あらゆる学問や行為において健全な真直な卓越せるものをのみ育てるあの喜ばしい教養の均衡が生れる。哲学の本質はそれを語った最初の人以来同一である。しかし哲学は生命ある学問である。絶対的形式を獲る得るためには精神はあらゆることに経験を積まなくてはならぬ。これがあらゆる自由な教養の普遍的法則である。知識が一般にそれ自身において目的であるとすれば、そこにおいて一切の他の知識が一であり、そして他の一切の知識の魂であり生命であるような知識については、尚更最も優れた意味において、そういわれなくてはならぬ。哲学は習得されるか、それは一般に習熟と勤勉とによって学び得られるか、それともそれは天性の能力であり、委された賜物であって、神意によって与えられるのか。普遍と特殊との永遠なる融一形式である絶対者の内面的本質は、現象する世界においては、理性と構想力のうちに発現している。この両者は元来同一なのであるが、ただ前者は観念的なもののうちに、後者は実在的なもののうちにおいてある。創造的な力は、それが存する場合には、陶冶され高められ、そして無限に自己の力で勢位を高めて行くことができる。意識の事実を越えて、それ自体において絶対的である何物かへ行き着くことこそ一切の哲学のそもそもからの意図である。哲学はまさに形式《形相》と本質との絶対的統一を問題とし、同時に絶対的観念性たる絶対的実在性をこそ表示する。論理学は通俗悟性の法則を絶対的なものとして立てる全然経験的な理説である。人間についての真の学問は、すべて心と肉体との本質的絶対的統一、すなわち人間の理念のうちにのみ求められる。本当の自然学もまた、すべての物の心身の同一から〔すなわち理念から〕生れる。思弁的であるが、他の点では制限された哲学が可能なのは、一切はすべて反復し、一切の可能な段階において、同じ同一が違った姿の下に繰り返し現れるのだから、この同一が反省という観点において捉えられ、それがこの観点において現れる際とるところの特殊な形式において絶対的な学問の原理とされ得ることによるのである。それが全然普遍的なものにまで高まる為には、絶対とされている特殊な同一の観方と思惟との制限から離脱しさえすればよいのだから。近代の世界は一般に対立の世界である。そして古代世界においては、個々には色々の動揺があったけれども、なお全体としては無限なるものが有限なるものと共に共通の被覆の下に一つになっていたが、後代の精神ははじめてこの被覆を破って無限なるものを有限なるものとの絶対的な対立において現象せしめた。無限な逸走から呼び戻された概念が有限なものをもって表示するであろう一層高い統一は、幾分無意識に、かの分離以前に存在した古代の統一に対して、全体としては丁度芸術作品が自然の有機物に対するような関係に立つであろうことは確かである。近代世界においては、そこに純粋な対立が現れる媒介現象が必然的であるということは明らかである。学問においても芸術においてもこの純粋な対立は、色々な形をとって繰り返し現れ、そうして後はじめてそれは本当に絶対的な同一にまで浄化されることも必然的なのである。その繰り返し現れるということにおいても必然的な近代世界の現象としての二元論は、その優勢をどこまでも己の側に保持する。各人が哲学に達するや否や、己に課す使命は、その本性上絶対者の認識でもある真に絶対的な唯一の認識を総体性に達するまで、また一切を一者のうちに完全に把握するまで追究すべきだ、ということである。哲学は絶対者そのものを、再び主観的にであれ、或は客観的にであれ、とにかく限定された状態に化してしまった一切の対立を遠ざけて、絶対者のうちに、一般に理念の国を開き、理念の道具にすぎぬ自然の一切の認識の本当の源泉を開く。
