《禅》
すべての束縛を断ち切り執著を超越、人間の絆を捨て天界の絆を越え、すべての絆を離れた人、自己こそ自分の主である、自己をよく調えたならば得難き主を得る。賢者は自分の身をよく調えて主となり得る、（自分の）目的を達成する。天の世界に生れる。永く天の世界にあって楽しむ。明らかな知慧を獲得する。いかなる束縛をも断ち切る。すべての悪い生存領域を捨て去る。すべての苦しみから脱れる。ニルヴァーナの近くにある。迷いの思量分別の計らいを超え、その領域を離れて始めて本当の生き生きした或いは活き活きした路が拓ける。自分に本来備わる仏になる可能性、仏性の意味の心、自分と自分を取り巻く環境との関わりを観察すると自然界はすべて自分の心の働きの現れであるという。心は無常で放逸で正体不明なもの、禅宗では言葉によって表されたものは本来空であると観察して、それらに対する執着を捨てることを「万事を休息する」といった。執心がなくなるので心は安静平安安楽になる。籠頭を脱却し角駄を卸す。一切の柵や重荷を取り払って清々し、さっぱりした境地、脱却とは邪魔者を取り払いさっぱりとなった状態を意味した言葉である。道元の著書『正法眼蔵』の中で脱落身心、身心脱落などの用法がある。この脱落は捨て去る、遠離するの意味で解脱と同義である。詳しくは自分の肉体や心による束縛から脱却して解脱することがこの脱落の意味である。脱落は脱却の意味を更に深め、その境地は無事であり無為、そして安楽の心である。無一物中に無尽蔵あり、花あり月あり楼台あり。宇宙全体があますことなく包み込まれる。掌を一杯に広げると其処に宇宙は既に満ちる。掴もうとする計らいを捨てたときに、すべてのものが自分のものになる。そこに無一物中無尽蔵の世界が開けてくる。黒い上にも黒い全く黒一色、黒が徹底して黒い、絶対の冥暗の世界、底知れない深奥の世界、全くの寂静の世界、微妙に千変万化する森羅万象を現出する、あらゆる自然現象を生み出す。仏教の世界観、あるいは人生観では、この千変万化の自然界は仮の世界であって本来は空無であったと考え、すべてが何らかの条件に依存し合いながら生成し存在し消滅しているのがこの世界であり、真理の立場から見ると、この世界は仮相の本来空の世界でしかない、この仮相の世界は真理の世界を見せるための施設の世界というわけである。迷いとか煩悩とかも本来空、これらは悟りや解脱と対立する言葉であって何れも方便、施設の意味を拡大解釈していえば経典や念仏や坐禅や公案なども施設といえる。文字で書かれた教えは世界の真理であり実体がないことが本物の真理、沈沈寂寂として施為を絶す。すべてのものは様々な姿をして現象しているが、それらは仮の姿、本来の姿は皆空、種々な差別相は仮の姿、本来仏性を見たときに直ちにブッダとなる、自己に本来内在するブッダになる可能性（仏性）を内観すれば自己が本来ブッダであったことを自覚する。見性成仏は人は本来ブッダになる可能性を有することを坐禅を通して観察すべきことを教えた文句である。縁起を見るものは法を見る、法を見るものは縁起を見る、法を見るものは自己（本来の自己）を見る、自己を見るものは法を見る、法を見て自己を見、自己を見て法を見る。自己とは後に仏教にいう仏性、釈尊は、自然界は縁起を如実に見ることが出来たら自然の真理（法）を見る、自然の真理（法）をみることが出来たら自身の本性を自覚する、彼は自分に内在する本来的可能性（自己）に突き当たる。禅とは自己に内在する仏性を自覚し自己の本来性に目覚めブッダになること、ひたすら坐禅を修める。本当の禅の境地は言葉を超え言葉の限界を突き破ったところにある、まさしく言語の道を断った（言語道断）域にこそある。言語はただこれ載道の器なり。自らの身体を通して感得する。冷暖自知、自分の肌で感応する。道元は存在するものが仏性の現れと見た。現成公案とは今現象しているもの（現）すべてが仏性（公案）として現れている（成）、つまり自然界すべてが仏となっている、仏として露現している、すべて仏性の如如躍動、現成公案の現は自分における疼き震え痛み、主体的に体験される。現とは疼きの原体験、疼くことが成公案、公案（真理、仏性）を自らの体験の上で自覚する、公案は常に一切の場所に遍く存在し満ち平等に現れるもの（現）だが、それを自分の疼き震え痛みとして感応したとき既に公案となる。それは坐禅を通して会得される。迷を大悟するは諸仏、現実の迷いの本質を知る者が仏、自己を運びて万法を修証するを迷、万法すすみで自己を修証するは悟りなり。悟りの側から応じて現れて来るとは、「私」の計らいを捨て悟りの側に「私」を投げ入れる時、人の悟りを得る、水に月の宿るが如し、広く大きなる光にあれど尺寸の水に宿り全月も弥天も草の露にも宿り一滴の水にも宿る。すべてのものは心から生まれている、その心とは本覚、仏性、そして霊覚、この心はすべてを包含する倉庫であり出生する大地、すべての景色を描き出す画師、悟りとは端的に言えば自己の本来性に目覚めること、すべての対立や差別を超えた境地、生まれ堕ちた赤裸々の威音已前の自分、身も心も一切の囚われから解放された状態を表したのが浄裸々という言葉である。肉体（身）と意識（心）における一切の囚われから脱れ自在の境地に入る、仏道をならうとは自己をならうこと、それは自己を忘れること、自己への執着を離れること、相対的執着を離れる（脱落する）、身心の観念を超越した坐禅が身心脱落の坐禅、脱落無為の坐禅、同時に悟りの風光である。悟りも修行も坐禅の姿、その境地を道元は修証一如、或いは修証一等と表現した。波羅蜜多とは限りない完成の積み重ね、仏教の修行は完成の相続、連続、積み重ね、証上而証そのものである。随所に主となれば立っている所が皆真の道、何処であろうと自分が主人公となれば居る所が皆真実、無碍自在、随処に主となれ。環境の中に自分は包まれて融合している。環境を指さすと自分を指さす。すべての現象を生き生きと映し出した自分、自然界の一切を受け入れた自分が確立される。自分が本来空であると同時に自分を取り巻くものも本来空であると観察する、これが一切の対立を超えること、色々な条件の関わりによって此処に存在した、それらの条件が崩れると本来空の状態に戻る帰する。修行を続ける中に数多くの波羅蜜多（完成）がある。修行とは波羅蜜多を集大成しながら続けられていくもの、悟りは波羅蜜多を無量無数に吸収しながら無限大に膨れ上がっていくもの、百尺竿頭にすべからく歩を進め十方世界に全身を現ずべし、頂上一点より更に一歩を踏み出して全世界に自己の全身心を表現せよ。新しい世界へ飛躍、跳躍、行き着くところまで突き抜け極め更に向上する。自己を全世界に充満させて自己と世界とが一味になる。大空に自己が舞い踊る、鳥が自在に空中を舞うように天空に遊戯する。
