「竹内直樹」への恨み骨髄に達している。
カッシラーにとって言語は、我々の経験を整合的に組織化する装置という意味で、歴史や科学と並ぶシンボル形式の一つなのである。彼の言語観は、言語を世界観の表現と見たフンボルトのそれを引き継ぎ、言語を実在の模写または模倣と考える実在論的言語観と対立する。言語の本質的特徴は単なる再生的機能よりも生産的構成的機能に求められるべきなのである。言語の主要な機能は対象を分類することにある。言葉の指示関係は、人間の興味および人間の目的によって決定されていると主張する。言語による分類体系は人間文化のあり方に相対的、歴史的変遷を許容する。経験の組織化は人間生活のあり方にその基礎を置いており、人間言語は常に人間生活のある形態と一体をなし合致している。この結論に後期ウィトゲンシュタインの生活様式の概念を重ね合わせる。歴史的事実、観念的な再構成、歴史の対象はシンボル的宇宙の中に存在する。歴史的対象は回想される限りにおいてのみ真の存在を示す。回想は構成的行為である。シンボル的実在は絶えず解釈と再解釈を要求する。歴史的事実を巡る考察は更に科学的事実へも拡張して適用される。科学の事実は常に理論的、即ちシンボル的要素を含んでいる。言語と科学の連続性を強調する。言語は、その感性的知覚の世界を分節組織化しようとする人間の最初の試みであったが、科学はその分節組織化の最も精密で洗練された最後の試みである。科学に特徴的なことは数の言語を発見したこと、数のシンボリズムを自在に使いこなすことにある。数学のシンボル言語は関係の一般的表現を可能にした。この関係的思考の発展こそは人類の知的達成の精華である。科学においてすら関係的思考が構成するのは物理的宇宙よりもシンボル的宇宙、カッシーラーにとっては、あらゆる事実はシンボルによって媒介されシンボル形式によって構成されている。カッシラーのアルファにしてオメガである。その点で彼はあくまでもカント主義者、シンボル形式は我々の経験を組織化する枠組みという意味でカントの悟性形式、即ちカテゴリーに相当する。カントのカテゴリーが我々の認識能力にアプリオリに内在する普遍的構造であるのに対し、カッシーラーのシンボル形式は経験に論理的に先立つという意味でアプリオリであるが、それは学習を通じてアポステリオリに獲得されるもの、しかも歴史的変化を受け入れる可変的可塑的構造である。本当の人間的シンボルは、同一性より可変性によって特徴づけられている。カッシーラーのシンボル形式の哲学は、カントの静的固定的な認識批判を動的歴史的な文化批判へと転換することによって理性批判のあり方に新たな可能性を開いたと言える。そのことを含めて、まさにこの『人間』の中には、戦後の哲学的土壌においてやがて開花することになる様々な思考の種子が散種されている。その種子を緑豊かな葉を繁らせた哲学の樹幹に育て上げることこそ、カッシーラーが後生に託したものであろう。本書は普遍的価値を持っている。自然的なものはその客観的特性によって記述できるが、人間はその意識によってのみ記述され定義され得る。この事実は全くの新しい問題を提出する。ソクラテス哲学の顕著な特徴をなすものは思考の新たな活動および機能である。それまで知的な独語と考えられていた哲学は対話に転化した。対話的もしくは弁証法的思考によってのみ我々の人間性の認識に近付ける。真理は本質として弁証法的思考に由来する。人間は常に彼自身を探求しているもの、その存在の各瞬間に自己の存在の条件を検査検討する。この検討する行為に人間の生活に対する批判的態度に人生の真の価値がある。プラトンの考えを媒介として、それは人間文明の未来の発展全体に痕跡を残した。古代哲学か強い統一と完全な連続を示すことを確認するために最も確実な方法あるいは近道をなすものは、ギリシャ哲学の最初の段階を、ギリシャ・ローマ文化が生んだ最後で最も高貴なものの一つであるマルクス・アウレリウス・アントニヌス皇帝によって書かれた『自省録』と比較することであろう。ソクラテスとマルクス・アウレリウスは、二人とも人間の真の性質または本質を見出すために、何よりもまず、自己の存在から、外部の偶然的性質、これに類する他のものを己が身から自若として多く奪われれば奪われるほど同時にますます善良になる。人間の本質は人間が自己に与える価値にのみ依存する。唯一の重要なものは魂の傾向、その内的態度、己を問う要求はソクラテスの考えにおけると同様ストア主義においても人間の特権であり基本的義務と考えられている。この義務は広い意味に解され宇宙的かつ形而上学的背景を持っている。支配する理性と呼ばれる我が部分に、我は如何なる関係をもつか、彼自身の自我、彼のデモンと調和して生きている人は宇宙とも調和して生存する。宇宙の秩序と個人の秩序は共通の表現であり表出たる。自己が内的形式を獲得する。球は一旦形成された以上、円く継続する。ギリシャ哲学の最後の言葉、以前に考えられた精神を再び包含し明らかにする。この精神は判断の精神、存在と非存在、真理と錯誤、善と悪の間を批判的に判別する精神、生命それ自身は変化し動揺しつつあるが、生命の真の価値は永遠の秩序の中に求められる。秩序を掴むのは判断の力、判断は人間における中心的力、真理と道徳の共通の源泉、それは人間が完全に自己自身に依存する唯一のものだからである。それは自由で自律で自足のものである。自由に一個の男子として一個の人間として一市民として万事を観る。絶えず心に銘記するがよい。宇宙は変貌である。人生は判定である。人間についてのストア的思想の最大の長所、自然との調和と自然からの道徳的独立の深刻な感情を二つながら与える点にある。二つは互いに関連し合っている。人間は宇宙と完全な平衡状態にある。人間に関するストア学説とキリスト教の説、思想の歴史において両者は結びついて進んでおり、同一の個人的思想家の中に密接に結合していることは、しばしば見られる。人間学的哲学は、テーゼ定立の後にアンチ・テーゼ反立が続く弁証法的過程と叙述できる。相闘う精神的な力の間の衝突、ここでは人間の運命全体が賭けられており、終局の決定を前にして号糾している。アウグスチヌスによると理性は二重で分裂した性質をもっている。人間は神に象って創られた。人間が神の手から離れ出たばかりの原始状態においては原型と同じであった。しかし、これはすべてアダム人間の堕落によって失われた。その時から理性の元の力は曇った。理性の自己再建、以前の純粋な本質に帰ること、このような改革は超自然的助力による、神の恩寵の力による、アウグスチヌスによって解され中世思想のあらゆる偉大な体系において支持された新しい人間学である。アリストテレスの門に属しギリシャ哲学の源泉に遡ったトマス・アクィナスはアウグスチヌスより人間の理性に遥かに高度の力を認めている。ギリシャ哲学によって支持されていた評価の完全な逆転に到達した。人間最高の特権と思われたものが危険であり誘惑、人間の誇りと思われたことが最も深い恥辱となる。
