『倶舎論』説一切有部
「空」とは否定作業によって自己が新しく甦るというプロセスの原動力、諸々のものの存在や言語活動を否定する側面と、その否定の結果として新しい自己が甦るという側面との二側面が存する。空とは究極的に言葉を超えた境地を目指し、空の思想では最終的に世界も空である、空に至った後に世界が甦り悟りなどの精神的救済も成立すると主張する。空思想の意義は「歴史とは何か」その上で現在を見つめ歴史の概念をそのものを問い直す。歴史とは人間の行為の歴史である故に歴史の概念を問い直すということは行為の構造そのものを問い直すこと、行為は時間の関数であるから時間をどのように考えるかが問題となる。西洋的な歴史観では世界観があり目的があって手段を選ぶ、という形の行為を中心に考え、更に時間が一方的に目的に向かって流れて行く、方向の時間を軸に行為を見るときには歴史を過去から未来へという流れとして見る。ヒンドゥー教にあっては神＝世界＝人間という図式。ありのままの自己への還帰、釈尊はものを捨て自己を捨て自己への執着を捨て一切を捨てて修行した。煩悩の激流を渡り心の不安や生死を超え彼岸に達する。無明を離れ尽くすには禅定の深まりが伴われ想受滅定といわれる定を通過した。心は欲の汚れから解脱し生存の汚れから解脱し無明の汚れから解脱した。解脱し終わった時に『解脱した』という智が起こった。『生は尽き果てた。清浄行が完成した。為すべきことは既に為された』と知り終わった。「解脱した」自覚こそ覚りの核心であろう。一切の形成作用（行）の静まること、一切の執着を捨て去ること、貪欲を離れること、やすらぎ〈ニルヴァーナ〉、個体への執着から解放される。常によく気をつけ自我に固執する見解を打ち破って世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができる。自我と世界、我（アートマン＝主体的存在）と法（ダルマ＝客体的な存在）の二空を観ずる者には不死の門が開かれ不生の涅槃が実現するという。向上につとめた人が一切の相を心に留めることなく一々の感受を滅したことによって相のない心の統一に入って留まる、そのとき彼の身体は健全なのである。この世で自らを島（灯明）とし、自らを拠り所として、法を島（灯明）とし、法を拠り所として。一切の想念や感受を滅した当人の夢相の心の統一こそに真実（法）が実現する。善とは人間の根源的解放、自我に固執する見解を打ち破って世界を空なりと観ずる。それは自己自身の心の中に求められるべきもの、釈尊の生涯と目覚めのすべては都市の文明や現代の知に再考を迫る。ひたすら自己と向き合う静謐がある。ダルマ（法）とは、存在なり現象なりの究極的な単位、その構成要素、自相（独自の特質）を維持するもの、世界が千変万化していくなかでも認識を生ぜしめる。
心法（心王）は心の中心、多様な心理現象は多彩な心理的要素が組み合わせを変えつつ生起しているのみだと説く。心王は対象の全体像を認識し心所はその個別相を個々認識する。心王と心所は同時に共に起きる。相応する。無為法が無為法として実現するとは心の有り様が有為のあり方、即ち時空の枠組みにおける分別を離れたところでのこと、禅定を深めて煩悩の激流を渡って真にこの世とかの世とを離れたところに涅槃は実現する、不生不死の世界である。すべては業がつくった力が一定のダルマの集合体としての個体性を存続させていくのみ、輪廻の中に沈むか浮かぶかは意志が悪に向かうか善に向かうかが根本である。自らの意志とそれに基づく行為が自らの在り方を形成していく。無我に徹底し生死の苦しみから解脱する。想像力を駆使して世の本来の実相を観じていく。不死の自己を実現した。アートマン（我）を要素還元主義的に解体してみせて世界をダルマの縁起で説明して自己と世界の「空」の観察に資した。一切有とは一切時に（諸々の法が）ある。現在にのみあらゆるダルマが存在していて、そこに過去の法も未来の法もある。無数の法のすべてが常に現在に有る。無数のダルマが現在に存在する。因果を超えた変化する在り方を超えた無為法を掴む。アビダルマの哲学が示す世界観は現在に無数の多元的なダルマが存在しているということが原点となる。有るのは多元的ダルマのみであり自我への執着を離れ無明を滅ぼすとき滅諦という真実の世界が実現する。
実体とは永遠不変の存在、法は自相を維持するものとして世界の構成要素、主体的存在として構想されている我も事物を構成する要素的存在として想定されている法も空無自性で故に仮の幻、というのが大乗仏教の根本的な立場なのである。本来、生滅も去来もなく寂静であり涅槃に入っている、我々の生死の世界も実は涅槃の世界そのものだったのである。そこに無住処涅槃という世界がある。我法倶空を了解するとは、我執のみならず法執をも断つ、静止的涅槃よりも一切空という透徹した智慧が生じる。問題の核心を見抜き真の自由を確立し自ずから願行を完成させていく。我法倶空こそが大乗仏教を支える。そこでは空とは悲用（大悲の働き）が完全に活動し得る原理そのもの、空の実相が仏から人へと無限に働きかける世界を支えている。
絶後再蘇、後も先もないところに至って再び生き返る。空前絶後から再び蘇生するその姿は何と華麗ではないか。蝶が蛹から成虫となって飛び立つように崖にしがみつく手を離して天空に飛躍することは新しい自己の誕生である。手を撤するとは一切のものへの拘りや囚われから離れること、人の最後の安らぎは一切の執着を捨て切ったところから得られる。志を固く、すべてのものは本来空であると観察して、ひたすら執着を離れるように修行してゆくならば、自ずから真理は現れ自分本来の姿を見る。真実は実践して体験することによって会得される。仏性は身体で証明されたときに、その人のものとなる。
あらゆる真理の中で最も優れ王中の王に例えて法王身と表現する。自然界のすべては皆法王身の現れ、山河並大地全露法王身、日々の生活は正に仏国土の中での生活であり全てが法王身の現れ、自分自身の一挙手一投足がブッダの一挙手一投足である。
