あらゆる分野も基礎基本から専門領域まで知り尽くせ！！
日ごとに月が満ちてゆくように、この少年の容貌の魅力と気品とは刻々に高まっていった。謙虚さを持ちながらアグレッシブに行動する。流暢に英語が喋れる。異空間から放たれる静謐なる衝動が伝わってくる。肉体的にも精神的にも私には一大変化が起こった。あの王は自分自身を神様だと思っていたが、その自惚れの高みから哀れにも転がり落ちて、動物のように地面を這って草を食うということになった。絶対的なものは存在と知識との同一のうちにある。人間は認識を通じて神となる。神は人間において神自身を自覚する。伝染病のように全体に広がった。この思想に潜む苦悩は時には燃える憤怒となり時には激しい疲労となって続いてきた。完全な全体は一人一人の個体の独自の完全さの上に成り立っている。私たち二人は真理を求める。貴方は外なる人生の中で、私は内なる心の中で。そして銘々がそれを見出す。眼が健全であれば、その眼は外で造物主に出会う。心が健全ならば、その心は内部に宇宙を映し出す。手近な経験から、直接的な体験から出発して、そこから宇宙全体を認識するところまで上っていくことを可能にしてくれるすべてのものを正当なものと認める。人生そのものが一つの統一体である。哲学も一つの芸術である。真の哲学者はすべて概念芸術家であった。彼等にとって人間の諸理念は芸術素材になり、学問の方法は芸術技法になった。このことを通して、抽象的な思考は具体的で個的な生命を獲得する。理念は生命力となる。その時、我々は事物についての知識を持ち、その知識を自立した生きた有機体にまで作り上げたのである。我々の活動的な現実意識は専ら受動的に真理を受け容れる以上の課題を背負っている。人間の思考と行為は自由であるのか、それとも必然という鉄の掟に縛られているのか。私が或る事柄を自由であると言うのは、その事柄の本質が必然的に成り立っており、その必然性に従って行動がなされている場合です。強制されていると私が呼ぶのは、事柄がその事柄とは別な何かによって厳密、精確な仕方で存在させられ行動させられている場合です。ですから例えば神は必然的であるにも拘わらず自由です。何故なら神は専ら自分の本性の必然性だけから成り立っているのですから。同様に神は自分並びに一切の他者を自由に認識しています。何故なら神がすべてを認識するということは、神の本性の必然性に由来することなのですから。自由というものを自由な必然性の中においている。何か一つのことを知り、一つの真理をものにするといっても、それを他の様々の知識や真理と結合し比較する必要があり、この手続きを経て初めて、自分自身の知識が完全な意味で獲得され、その知識を自由に獲得することができる。我々が徹底的に考えることができるのは、自分で知っていることだけである。知るためには学ぶべきである。自ら思索する精神は、厳密な意味では外界あるいは何らかの警告によって拘束は受けても、読書する精神とは逆に自らの衝動に従って動く。ただ素材と機会を提供してその天分とその時の気分にかなった問題を思索させる。学者とは書物を読破した人、思想家、天才とは人類の蒙をひらき、その前進を促す者で、世界という書物を直接読破した人のことである。もともと自分の抱く基本的思想にのみ真理と生命が宿る。我々が真の意味で充分に理解するのも自分の思想だけだからである。我々自身の精神の中にもえいでる思想はいわば花盛りの春の花であり、それに比べれば他人の本から読み取った思想は石にその痕をとどめる太古の花のようなものである。唯一人、魔法の幸福の梯子を伝って上へ上へと昇ってゆく自分の姿、精神的に解釈すれば未来はこの夢を正当なりとした。また異常に勉強の意欲が出てきた・・字を書き込み入れ印刷し続けてインターネットは知り尽くしているんだから、吸収力は凄まじい。16歳も軌跡道程も枠にあれば、また大学に行き直す事だって可能だ。心情的には何時にだって戻れる何歳にもなれるけど、能力も外見も遠いか、合わせ合わさらなきゃならん。全部の時期の全歳の外見も能力も今に合わせ合わさるのだ。力で一つにするのだ。生命の奥深く根をおろすもの、そこから一切の生命は由来するのであるが、それぞれ独自の形式において、建設したり取り壊したりするものである。私が再び自分の分に舞い戻るまでは、何かの禍を次々に喚び起こすのであった。擾乱の日は過ぎた。半ば誇りかに半ば恥じらいをもって人々はあの日々を思い出した。16才より頭も顔も身体も超良くなる。16歳と軌跡道程と一つになるだけ、唯それだけだ。我々は、あらゆる罪への萌芽を自らの内に持っている。そして多くの魂においては潜在的な感じを顕在的ならしめる。私の内なる或る種の力が増大し集中されさえしたならば。
