うむ、まるで美しい女性のようだ、それ以上だ。中性的？男性的？
自然学は、それ自体個々の現象や所産を超えて、それらを一に帰せしめ、またそれらの共通の源泉として生ずるところのものの理念に達することである。経験もまた全体としての自然の表象をもっている。この全体のうちでは一は一切によって、一切は一によって規定されている。一と一切とがそれ自身一たる点こそ哲学によってのみ認識される。一切の物が神或は絶対者から生れ出ることを理解するのは、哲学の根本的にして必然的な意図であり、自然が主観客観化の永遠なる作用の実在的な面の全体である限り、自然哲学は哲学一般の根本的にして必然的な面である。哲学の原理並びに根拠は絶対的観念性であるが、それが主観性として客観性に転化する、現象する有限な自然こそこの転化の象徴である。かの主観客観化の作用も神の認識作用のうちに含まれているのであるから、哲学は全体としては絶対的観念論である。絶対的に観念的なものの本質性が特殊性のうちへ両者が同一に達するまで完全に形成し入れられることによって、諸々の理念が神の内に生産される、理念を自身のうちに留め実在的たらしめる統一は、理念を絶対者のうちにあらしめて観念的たらしめる統一とそのまま同一なのである。自然はその原体、そこでは自然は主観客観化の絶対的作用そのものの全体において、現象、そこでは自然は原体の相対的実在的な或いは客観的な面として現れる、から見ても本質上一であって、一切の物のうちに唯一生命があり、それはいつも同じ力であって、諸理念を通じて遍在する同一の融合体である。自然学も唯一であり悟性によって分けられた部門は絶対的認識の分科である。およそ構成は実在的なものを観念的なもののうちに、特殊を端的に普遍的なもの、すなわち理念のうちに表示することである。一切の特殊なものは特殊として形相である。しかし一切の形相のうち必然的な永遠な絶対的な形相は源泉であり始源である。主観客観化の作用は一切の物を貫き特殊な諸形相となって拡まって行く。この特殊な諸形相はすべて普遍的無制約的形相の種々なる現象の仕方にすぎぬから、普遍的無制約的形相のうちでは無制約なのである。一切の物の内的な範型はその由来を共通にするが故に一、構成は自足する。行為にも知識にもまた宇宙や自然の原体が無条件の必然性として君臨する。運命と闘う勇士は神さえも喜んで照覧し給う程の見ものであるが、精神が根源的自然とその現象の永遠なる内奥との直観を得ようとする努力の様は、それに劣らず崇高な光景である。悲劇においては争闘は両者が完全に等しい高さに達することによってはじめて真に解決される。また精神も自然が己を浄化して精神との完全な無差別となり観念的なものとなることによってのみ、自然との戦いから和解して抜け出ることができる。自然の聖殿の奥深く参じようとする者は、この高い世界の調べをもって己を養い、そしてあたかも濃やかな光をなして、この詩から流れ出て世界の秘奥を動かす力を若き日に吸い込むがよいのである。物質は種々の形相の共通の胚芽、絶対者が特殊な種類の形象のうちに己を客観化し実在化する限り、物質は絶対者の永遠なる自己直観の作用である。物質の原体を示すことも、またそこから現象という規定をもって特殊な物が生ずる有様を示すことも、哲学だけの仕事である。すべての特殊な物の理念は端的に一であって、同種類の無限に多くの物が生成するためにも唯一の理念で十分足りる。理念は無限の可能性をもつ。各々のうちに一切が、その特殊な形相に応じて形成されている。可視の世界においても第一の諸形相はいくつもの統一であり、それは一切の他の形相を特殊として己のうちに抱いており己のうちから生産する。この諸統一はそれ自身諸宇宙として現れる。それらの拡がりへ移行し空間を充たす仕方は、統一《一》が多のうちへ造り入れられる永遠なる形式から導き出される。多は理念においては対立者と一であるが、現象においては多として区別される。感性的諸統一は、理念としては中心たる絶対者から生ずるように、同じく現象においても共通の中心点から生れる、もしくは各々の理念は、それ自身また生産的であり中心点たり得るから、いくつもの共通な中心点から生れる、そしてその原型と同じく依存的であると同時に独立的である。天体は理念のように生産的であり宇宙の一切の形相を自分から生み出すという点で理念に似ているが、天体はその模写なのである。物質は現象からいうと宇宙の身体ではあるが、己自身のうちで再び心と身体とに分かれる。地の萌芽は光によってのみ育てられる。光が本質並びに普遍として現出し得るためには、質料《物質》は形相となり、特殊に化して行かなくてはならぬ。物体の特殊化の普遍的形式は、物体をそれぞれ自身に等しからしめ、己自身のうちに凝集せしめるところのものである。統一を差別へ造り入れる形成の形式である普遍的形式との関係から、物質の一切の特殊な差異が理解される。同一から出ることは、一切の物に関していえば、そのまま同時に統一への帰還である。そしてそのことが一切の物の観念的な面であり、そのことによって一切の物は霊あるものとして現象する。普遍的な心霊としての同一におけるあらゆる事物の存在、並びに同一と再び一たらんとする努力は、統一から措定されている場合は、生ける現象の普遍的根拠として既に前に示したところである。活動の特殊な形相は本来それに固有の必然的な形相である。理念の統一が存在において三次元に展開するように、生命や活動も同じ範型によって己を表現し、これらの形相は物質の本質に必然的に内属する。絶対的自然学は、同一の全体の内に分離した統一の現象をも、また一層高い有機的世界の現象をも包含する。有機的世界の所産によって、主観客観化の全体は、その両面において同時に現象する。最も古い見解によれば、有機体は最も完全な自己直観をなしつつある小自然であり、そのように有機体の学も普遍的自然認識の一切の光を、あたかも一つの焦点に集めるように一に集中する。一切の部門はそれ自身絶対的であって、一切の部門はただ各々それぞれにおいて特殊が普遍から、また絶対的法則性から理解されることによってのみ、本当に統一される。人間の本質は本質的には彼自身の行なのである。必然と自由とは唯一本質として融合する。その唯一本質が異なった側面から見られれば一或いは他として現れる。自体には自由であり形式的には必然性である。自我は自我自身の行である、意識は自己定立である。実在的なる自己定立、あらゆる本質性の根底であり基底であるところの根元的また根底的意欲である。創造の元初（中心）の内へ創り出されている。
