この世界そのものが実在であり実体である。
寝て起きたら今日今この瞬間にも、行き着くところまで辿り行き着き、そうしてなっておいてくれ。最早精神は破綻を来している。枠の全身丸ごと中心核に預け与え一つに合一する。行く先に意識ごと心ごと体ごと預け与えるだけだ。この現実に居る有る存在する枠ごと中心核に居る有る存在する。この枠は中心核にある。枠の今までの全部の力も能力も気もエネルギーも中心核にあるから、抜かれ奪われ持ってかれ移動し行き続けたから、今、一つに合一できる。いずれ枠が完全に移動して一つに合一する為に、16歳から中心核を創り造り作り出し上げたのだから。全身丸ごと中心核に突っ込め！！抜け殻残骸も中心核にあり！！枠と中心核との神秘的冥合体験である。枠は今中心核に居る有る存在する。枠は今中心核である。今日が最後だ、今日でこの死地をゴミ溜めを脱していないのなら飛び降りるのみだ。この枠全身丸ごと中心核に居る有る存在する。この枠こそが中心核である。さて、経験が示すところでは、ある永遠的運動が存在している。すなわち恒星天の円運動である。動かすのは、その実在が論証された純粋かつ活動的な形相、およそ考えうる最高の性質のもの、永遠の自己観想の生、神が観想するにふさわしい唯一の対象は神自身である。神は完全であるが故に、彼はこの世界全体の欲求の対象であり、回転する諸天球の自然的運動と、それぞれ自己の現実化へと向かうあらゆる種類の動きとの究極原因なのである。自己を知るとは、魂である自己を認識することを含意している。自己を吟味するとは、その真の自己の判断を、人間本性に内在し、身体及びその誘惑的諸関心に密接に繋がっている他の諸要素の誘導から識別するために必要とされる訓練のことである。自己を治めるとは、その真の自己が他の諸要素を支配すること 、すなわち魂の絶対専制支配のことである。善と悪を判断するこの内なる裁判官は統治者でもある。完全存在たるイデアの世界は、真に現実的実在的なものすべてを含む。このイデアは実体に特有だと見なされる諸特徴を有している。実体としての存在は、この方角に追求されるべきだ。恒常不変のイデアの世界は、その引力によって潮の満ち干を支配する月さながらに、時間と空間のうちにある生成の流れを支配している。自然という大宇宙から人間の心身という小宇宙に向き直って、身体の完全さ、つまりその美しさ、強さ、そして健康というものが物質的諸要素の調和に依存するものであることを見た。ギリシア医学の理論と実践は大部分、治癒とは病気のために乱された均衡もしくは比例関係の回復であるという原理によって支配された。その同じ原理は魂の良さ、あるいは「徳」にも適用された。魂の健康は過度と不足の悪徳によって攪乱される。魂の完成とは人間のコスモス内部に調和を回復することである。すべての生物は一つに統合されている、つまり神々や人間や動物たちは一つの共同体を形作っていて、一つの形態から別の形態へと移り行くことのできる唯一つの生命原理によって生かされている。人は神に等しきものとなることができる。彼の内なる生命は、宇宙を隈なく照らす神的な火から発する火花だからである。完全なるイデアについての知識と、そして真理と実在についての全知識は常に我々の魂そのものの中に備わっている。学び、あるいは真理の発見と呼ばれているのは、この隠れていた知識が思い起こされて意識レベルにまで高められることにほかならない。探求において魂は自分がぼんやりと見ている真理の姿によって導かれる。真理はいつもそこに備わっていて、ただもっと明瞭に見られ、そして真理の全体系の他の部分と調和的に関連づけられることだけを求めているのである。上方の第一原理へ向かうと共に、また下方のもっと複雑な諸命題へと進んでいく。精神自らが直観と演繹的推理を行使することによって、精神の内部から引き出された。その本性全体は既知の語によって完全に定義可能である。そしてそれは完全である。我々の感覚が物体の表面において見たり触れたりする不完全な似像すべてを超越する理想として完全である。かくして数学的真理の世界は可知的世界であり、身体的感覚の領域を超えている。魂が諸感覚から身を引いて自分だけで思考するときには、この実在の世界を自由に旅することができる。直観と演繹的推論は真理から真理へと前進することができる。何故ならどの真理も他のあらゆる真理と論理的必然の鎖によって繋がっているからだ。我々はその都度新たな真理を確実に知り、何故それが真実でなければならないかをも知る。これが十全な意味での知識である。それは完全に明晰で首尾一貫している。我々が数学の完全な概念や真理についてもつ知識は、完成状態にまで高めうる不死なる魂への信念と結合している。数学的知識の対象は、生の諸行為を統御すべき道徳的完成の諸理想、と同一の可知的実在の階層に属することを見た。彼は、片時も止まらず移ろいゆく物象事象の流れをこえた実体的存在という同一の資格をそれら両対象のために等しく要求した。そしてそれらを知る魂は生まれながらの権利によってその実在世界の住人である。魂にとってはいつもそこが我が家であり、いつでもそこへ、物質存在の惑乱と、感覚および欲求を伴う身体の執拗な物乞いとを逃れて帰ることができる。二筋の議論、感覚的事物とは独立に理想的範型としてのイデアが実在する。魂が身体への寄宿とは独立に実在する。人間の内にある神的な霊魂の、肉体の牢獄からの解放であって、その牢獄に霊魂はただ異邦の巡礼として逗留していただけなのである。精神的完成を希求切望する理知的自己と同一視された。幸福は、その真の自己が完全性に向かって前進し支配権を握る度合いに応じて達成できる。完全性が時間的世界において到達可能かどうか、完全性は時間を超えた世界で永遠の現在において実現されると確信している。希求切望の哲学を人生と行為の領域から自然全体の解釈へと拡張する点においても、また彼を乗り越えてゆく。我々は既に数学的真理の分野全体が可知的イデアの領土に加えられた経緯を見た。完全に発展して花や実をつけた植物へ種子が伸展していく成長過程、ある無意識の欲求が終始その終極を目的地として目指していたかのようである。予め決定された生命の動きは、その動きの終極によってその過程が支配されていると考えるときに理解可能なものとなる。種的イデアは完全な理想として、生命特有の動きは一つの欲求衝動として考えることができる。その場合、種のイデアは、そこに向かって個体が接近していく理想的限界として、あるいは個体がそれの不完全な模倣であるところの完全な模範として、永遠的実在の世界の内に位置づけられるだろう。
